6月25日刊行『本の夢 小さな夢の本』

 この本は、少女時代に作っていた「夢の莟ノオト」が開花したものです。
はじめに詩と古典のことばが降りてきて、そこから物語がうまれ、大好きな本の形を借りて、宝石のような小さな本が誕生しました。
 仕事として多くの装丁に関わり、商品としての本作りを経験して、小さな本が、大きな本の単なるミニチュアではなく、綿密なレイアウトで作られるべきものと思いました。 
 手書きで作ったはじめての本から、その芯にあるのは、典雅で普遍的な古語のしらべであり、詩のリズムでした。
 本の内容としてのテキストや絵は、あらゆる流行には無縁で、むしろ花翳にひっそりと咲いているようなものばかりを選んできました。
 現代はかつてなかったような多様な素材があふれています。アンティークの品々に触れる機会も多く、時を超えてなお残っている本物の美しさに、古典文学に通じるものを感じとるようになりました。
「金メッキのような作家が多いなかにあって、純金の作家」と佐藤春夫は評されています。若き日に自分にとっての「純金の作家」ともいえる方々に彗星のようにめぐり会えたのは、天からの贈り物だったのかもしれません。 
 次に作りたい本を考えながら、この贈り物の尊さを、いつも心に刻んでいます。


*写真は、ケイト・グリーナウェイの変型六角カップの上のリボンの本
『OLD-FASHIONED RIBBN ART』三角ビーズとパールビーズとクリップで本体を綴じ、
幅広リボンで作られたサッシュやクッションの銅版画が収められています。
   
何十年もの想いの込められた『本の夢 小さな夢の本』
芸術新聞社より、6月25日発売です。
ISBN978-4-87586-450-9 C0070 定価:本体2200円+税

芸術新聞社アートアクセス http://www.gei-shin.co.jp/books/ISBN978-4-87586-450-9.html
amazon   http://www.amazon.co.jp/本の夢-小さな夢の本-田中淑恵/dp/4875864507

信濃追分と福永武彦夫妻のこと




 紫のぼかしに短冊を散らし、物憂い横顔の婦人を配した七夕の絵葉書。裏をかえすと、旧字旧仮名の見馴れぬ文字が綴られている。差出人の名前を見て私は驚いた。それが福永武彦先生にはじめて戴いた夢二の絵葉書だった。そのとき、先生の余命があと四年などということを、誰が予測しえただろうか。
「この間はお手紙ありがたう 豆本二冊たのしく拝見しました(中略)今どき 本づくりの好きな人なんてのは珍しいから大いにおやりなさい(中略)これから追分の方に出かけますから 夏の間にこちらに来たらお寄りなさい 原則的には面会謝絶ですから 電話を先にかけるか ちゃんと自己紹介をして下さい」
そして末尾に追分の電話番号が書かれてあった。


  夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
  水引草に風が立ち
  草ひばりのうたひやまない
  しづまりかへつた午さがりの林道を   (のちのおもひに) 


 立原道造の詩にうたわれた信濃追分は、私にとっての夢の芯であり、その村を訪れたことで、その後の人生をも変えてしまった格別な魔法の場処であった。はじめて手製の小さな本を作ったのは中学生の時、高校で立原の詩集に出会い、周辺を読み進むうちに、彼が「散歩詩集」という多色の色鉛筆で詩を書き付けた手製本を作っていたことを知った。架空の版元「人魚書房」を考え、『萱草に寄す』という楽譜型のソネット(十四行詩)集も刊行していた。学生時代からたびたび信濃追分に逗留し、その地の風物をうたい、避暑に来ていた少女に想いを寄せて、きよらかな調べの数々の詩を残した。彼の詩が生まれるためになくてはならない信濃追分という土地の名は、私の心に夢間の風のように吹いてきた。
 ようやく大学二年の夏休みに、追分行きを決行した。上野から急行で三時間という時代だった。追分旧道の脇本陣である油屋旅館に立ち寄り、裏手の泉洞寺の墓地を歩いたが、見たかった黄色いゆうすげの花はどこにも咲いていなかった。それは、夏の半ばまで咲く花だったのに、訪れたのは晩夏だったのである。
 墓地の、堀辰雄が愛した石仏の前でぼんやりしていると、こちらへ向かってくる人影がある。四季派の詩人たちが好きで、頻繁に追分を訪れているという。その人に村の名所旧跡を案内してもらい、最後に、油屋裏手の山荘を指差して、あれが福永武彦の別荘だ、と教えてくれたのだった。その作家の小説は、高校生の時に『夢見る少年の昼と夜』を最初に読んで、異国の当て字や物語のなかの恋人たちを集めたノートを作っている少年が自分そっくりだったので、たちまちファンになり、『草の花』や『風のかたみ』に心酔していた頃だった。
 同年の冬、私はカメラとともに駆り立てられるように追分に向かった。始発電車が追分に到着したとたん、歓声があがるほどに美しい樹氷がホームの向こう側に連なっていた。駅から旧道へと歩きながら、ひっきりなしにシャッターを押し、やがて福永邸の前を流れる小川まで辿り着いたとき、川のほとりの枯れ草が凍りついて、星の花のようなうつくしさだった。その花と山荘をカメラに収め、帰京してから、それらの写真のベタ焼きを使って『しなのおいわけ』という四角い小さな本を作った。まだタイトルを入れる手段として、ひらがなのインスタントレタリングしか選択肢がなかったのである。六つ切に伸ばしたものにはケースを作り、撮影した駅のネームプレートを貼って写真の授業の課題に提出した。
 この小さな本は焼き増しをすれば複数作れるので、もう一冊を作って山荘の持ち主に敬意を表して送付した。それをすっかり忘れていた半年後に、突然届いた返信だった。もとより何の期待もしていなかったのだが、せっかく電話番号まで書いて下さっているのだから、訪問してみようと思った。
 電話をかけると奥様が出られて「あなた、豆本の女の子よ」と伝える声が聞こえ、先生が替わられて日時を約束した。初めてお目にかかった先生は、ゆうすげ色の黄色いポロシャツを着ていらした。前日、北軽井沢の照月湖のほとりで描いてきたクサフジやホタルブクロのスケッチを熱心にご覧になり、「いいな、僕も描こうかな」とおっしゃった。その日は、『廃市』のサイン本を頂戴し、教えていただいた「ゆうすげのいっぱい咲いている」第二林道で、日暮れるまで花の絵を描き続けていたのを思い出す。
 初秋に届いた絵葉書に「僕は夏の間毎日草花の寫生をして愉しみました 黒いペンの下書に日本絵具で色をつけたものです 来年はもつとせつせと描くつもりです」と書かれている。のちに中央公論社から出版された『玩草亭百花譜』の最初のスケッチの野あざみの日付が八月六日、お目にかかった数日後なので、ほぼ間違いなく、その日のことが契機になったのだと思う。
 学習院大学では恐いと評判の先生になぜか気に入られて、カットを描くアルバイトまで紹介していただき、成城のお宅にまでお訪ねすることを許された。
 やがて、四年生の夏に追分に伺うと、「もし就職するつもりなら、どこか紹介してあげよう」と、S社やT社、つまり執筆なさっている出版社の名前をあげられたのだが、私には有名出版社志向が皆無だった。「六人くらいの小さいデザイン事務所に行きたい」と思っていたので、お願いしますとは言えなかった。
 すると、秋になってから突然自宅に電話があり、「早くしないと間に合わないよ。そうだ、君は去年追分で『ミセス』の編集長に会っている。あの人に紹介状を書いてあげるから取りに来なさい」と言われて、急いで成城に赴いた。封はしていないから見てもいいよ、ということだったので、帰りの成城の並木道で開けてみると、当然ながら褒めてあるので、使い物にならなかったらどうしよう、と困惑した。
 一度しか会っていない「ミセス」編集長に封筒を届けにいくと、「私は四十度の熱があった時も仕事しました」と言われ、「あなたは、もし面接まで行ったら、自分で作った本を持ってらっしゃい」と助言されたが、一次の学科が通らなければ紹介は効かないようなので、どのみち無理だろうと思っていた。
 その頃、新聞で見つけた「ぴぽ社」という紙工作の製品を作っている六人くらいの会社に面接に行った。すぐに気に入られて「明日からでも来てほしい」と言われたが、まだ他社の一次試験の結果待ちだったので、即答出来なかった。結局一次試験も面接もパスして、入社はできなかったのだが、ぴぽ社はまだあるのかな、と今でも時おり懐かしく思い出す。ぴぽ社やS社やT社に入社していたら、私の人生も大きく変わっていたかもしれない。それでも私は、「君にはあそこが向いてるよ」と福永先生がご自分で選んで推薦して下さった会社が大好きだった。「君は何も相談しない」と言われていたので、辞める時には相談に伺ったが、その一年後に急逝されたので、なぜあと一年待てなかったのかと、いついつまでも悔いは残った。
 奥様の貞子さんとは、先生亡き後も、成城のお宅や追分の山荘をお訪ねした。世田谷の教会で開催した一周忌の記念会では、宝塚の「風のかたみ」のパネル作りなどもお手伝いした。信濃毎日に載るという清瀬の療養所で知り合った頃のお二人の思い出を書いた草稿も見せていただいた。掲載には至らなかったようだが、雪の降る日に、先生の病室のガラス戸をトントンと叩くと開けてくれた、というくだりは、映画「また逢う日まで」のシーンを連想させた。
 一九八九年の私の最初の個展「装丁と豆本展」には、大きなアレンジメントを贈って下さった。初日のオープニングには、乾杯の音頭をとって下さった恩師庄司浅水先生、作家の清川妙先生、田中澄江先生のお嫁さんで画家の三田恭子さんなどがお見えになったので、皆様にお引き合せした記憶がある。
 著作権を守った奥様がどうやら生活に困窮していらっしゃるのではないか、と思いはじめたのは、成城の家と蔵書を売却し、厳冬期も含めて四季を追分で過ごされるようになってからである。ある夏、一緒にタクシーで旧軽井沢に行った時のこと。浅野屋でパンを買い、郵便局の横の露地を入ると、小さなブティックがあって、とりどりに美しい秋のニットが飾られていた。奥様はなかでもとびきり華やかな、さまざまな色の花モチーフを配したセーターを胸に当てて微笑み、そのセーターを包んでもらった。
 以来もうお会いすることがなかったが、二〇〇六年、軽井沢高原文庫の副館長さんがポーラミュージアムアネックスでの展覧会のために上京されたとき、奥様が三年前に群馬のホームで亡くなったことを告げられたのだった。もしかしたら、あれが最後の贅沢な買物だったのではないか。何かうらがなしく最後にお会いした日の旧軽の情景が思い出された。

(写真は、授業で提出した追分の写真集を、ベタ焼きを使って小さな本に仕立て直したもの。天地58×左右62ミリ)

本の装い、商品としての本

*本の装い、商品としての本 




これまでに何冊の本を装丁したか、記録もなく、すべてを所蔵してもいないので、書名を覚えていない初期の本はどれだけあるか分らなくなっている。
 最初にきちんと印刷して造本をしたのが、学生時代の友人の詩集『海の色』だった。エディトリアルの授業で編集作業は一通り学んでいたので、装丁とレイアウトは出来上がったが、さてどこに頼んでいいのか皆目わからない。友人と二人で、神田猿楽町をうろうろしたあげくに、疲れ切って飛び込んだのが、「矢嶋製本」という製本所だった。社長さんは、学生さんだから破格値でやってあげようと言って下さり、そのかわり本文紙と表紙のクロスは在庫を使うこと、という制約が付いた。出来上がったA5判上製の詩集は、本文がかなり黄色い厚手の用紙だったのは、薄い本なので束を出してくださったのだろう。表紙のクロスは茶系で、タイトルが金で箔押してあった。 海の色ではなかったが、確かに良心的な値段で、学生にしては至極立派な詩集になった。この最初の本は、色も手触りも鮮明に記憶している。「矢嶋製本」が、名高い「武井武雄刊本」を手がけていた有名な製本所だということは、ずっとあとになって知った。社長さんが、武井武雄の一冊ごとに違う手法での本作りを意気に感じて、採算度外視で引き受けていたということである。
 その後勤めた出版社では、まず雑誌のレイアウトや美しい文字組や進行を先輩が一人ついて、手取り足取り教えられた。折しも「労働組合25周年記念誌」を刊行することになり、これを好きにやっていいよと任せてくれた。出来映えはともかく、この本が社会に出てからの単行本装丁の第一号となった。社員なので稿料はなく、組合からの謝礼は、箱入りのディオールの朱色のハンカチだった。
 「ミセス」巻末にはまだ「詩壇」「歌壇」「俳壇」に活版頁があり、グラビア、オフセットと共存していた時代である。新入社員の仕事は、一年目は「装苑」「ミセス」「季刊銀花」「スタイルブック」などのお手伝い。二年目でようやく「ミセスの子ども服」の進行レイアウトを任された。編集部、校閲部、製図部、写真部、広告部の各々の社員と、写植、印刷所との対応のほかに、青山のデザイン事務所に巻頭カラー頁のレイアウト依頼と引き取り、夜になると、地味なモノクロの巻末作り方頁を自分でレイアウトした。青山の事務所は、ミセスに画期的なレイアウトを導入した江島任先生の仕事場である。
 所員からは「さっき来た便の人」と言われ、人間の数にはカウントされなかった。江島先生とたまに遭遇すると、「これ何、言ってごらん」と、社の原稿袋や印刷物を次々と手渡された。「凸版です」「オフセットです」「グラビアです」と緊張しながら答えると、虎のような風貌の先生は、眼光するどくいつ間違えるかと虎視眈々と狙っているのであった。
 入社一ヶ月目の頃、見事に就職試験を落ちた絵本の出版社から電話があり、たくさんの受験者から東大生をひとり採用したのだが、残念ながら使えない。「もし勤めていなかったら、来てくれないか」という話だった。「あいにく勤めています」「ではこれから出す絵本作家文庫シリーズの装丁をお願いしたい」という成行きで、会社に内緒のペンネームで、他社の装丁を引き受けることになった。今考えれば、経験した装丁はわずかに二冊、色指定のインクの見本帖さえ持っていないのに、よい度胸だったと思う。新宿プチモンドや、明治大学の旧い円形校舎の一室で打ち合わせをした。編者の一人だった今江祥智さんがまだ先生だった灰谷健次郎さんを伴っていらしたのが懐かしい。前後して、地味な歌集や詩集の仕事も舞い込んで、残業百時間をこなしながら、他社の仕事も出来たのは、それが雑誌ではなく作りたかった単行本だったからであり、何よりも若いエネルギーに満ち溢れていたからだろう。 
 特別な根回しもなしに会社を辞めたのは二年後、時代がよかったからだろうか、こちらから何も働きかけなくても、仕事は山のようにあった。嬉しかったのは、古巣の上司や先輩方が色々な仕事を出してくださったことだ。編集者たちの飲み会にも毎月一度は必ず足を運んで、人脈作りに励んだ。ありがたいことに地道な努力が実を結んで、みずから頼んだことはほとんどないのに、少しずつ仕事が拡がってゆき、今に至るまで仕事が途切れることなく続いている。
 多くの装丁書は、どれもみなそれぞれに想い入れがあるが、とりわけ印象ふかく残っているのは、売れないだろうと言われながら、思いがけずベストセラーとなり、ホログラム箔、レインボー箔などの贅沢を体験した小学館の『ダレン・シャン』シリーズ、モノクロのシンプルな女性の写真を探して何人ものカメラマンと面接した読売新聞社の『愛しすぎる女たち』(ロビン・ノーウッド著/落合恵子訳)、第22回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した井田真木子著『プロレス少女伝説』(かのう書房刊)、リルケの『マルテの手記』のなかの6枚のタピスリーについて語っている部分とタピスリーの写真を呼応させた『一角獣をつれた貴婦人』(風信社刊)、武井武雄の全刊本作品の書影と詳細な解説を記した夫婦函入『百三十九冊の不思議な本』(斉藤正一著/文化出版局刊)などである。 
 かつて読売新聞社の出版局にいた村上玄一さんは、安岡章太郎野坂昭如の愛弟子であり、大学で教鞭をとりながら小説を書いていた。読売から学研、角川書店と転職のたびに仕事を出して下さったばかりか、面倒見がよく、周辺のライターや編集者もいつのまにかみな友達になっていた。感謝を形にしたくて、彼の短篇小説『サーカス』を、革装の小さな本に仕立て、彫金デザイナーの高野裕紀さんに制作を頼んだトンボ玉の付いた銀の函に入れて贈った。
 二十歳の時に「四季派研究会」で出会った帝塚山学院大学山田俊幸教授(当初はまだ戸塚中学の先生だった)と村上さんとは、来世の次にあるという来々世々になっても恩を返したいと思う人の筆頭格である。裕紀さんは、二〇〇〇年の王子ペーパーギャラリーでの個展の記念に、細い螺旋をからめた素敵な銀製ハートの小さな本を作ってくれた。
 『百三十九冊の不思議な本』は、古巣から出版された本で、担当者は、私が学齢前に住んでいた岡山県の出身だったので妙に気が合い、多くの豪華本を共に作った。出版界が生き生きとしていて活力に溢れ、局長の今井田さんも元気いっぱいだった頃である。
 一九九一年、『プロレス少女伝説』が大宅賞を受賞したとき、井田さんに「末永く書き続けられますように」という願いを込めて金のペンの形のペンダントを贈った。ところが願いも虚しく、その十年後に突然帰らぬ人となってしまった。いかにも惜しいこれからという四十四歳だった。
 『一角獣をつれた貴婦人』は、山田先生から依頼の仕事で、格調の高い訳は、慶応大学のドイツ文学の教授だった塚越敏先生。先生の芸術選奨受賞の『リルケヴァレリー』(青土社刊)の装丁も担当させていただいた。
 二〇一三年の国立新美術館で開催された『貴婦人と一角獣』展の目録の参考文献に、一九八九年に日本ではじめてタピスリーが紹介されたこの本が載っていないというのは、どう考えても手落ちというしかないと思った。別会社が制作したヴィデオと、作品解説の訳に相違があったりして、展覧会の華麗さの裏でのちいさな杜撰さが、とても気になった。かつて本を作ったものにはそれが判るだけに、若い世代にシフトしていることを、まざまざと思い知らされたことだった。戦争のように、体験的に知らない者が、社会の中枢になってゆく危うさをも感じたのである。塚越先生が存命であったなら、どんなにか無念であったことだろうか。
 ルドヴィッヒ・コズマの描いた角笛の絵をあしらって、この本の函に貼る題簽を作った。そして、このタピスリーをどうしても見たくて、パリのクリュニー美術館を訪ねて行った遠い日のことを思い出す。

個人誌「邯鄲夢」と久世光彦さんのこと 



 箱のなかに箱があり、それを開けるとまた箱がある。開けても開けても箱があり、少々不安になった頃、ようやく小さな本が顔を出す。このマトリョーシカのような重ね箱のイメージは、絵のなかの絵、そのなかの絵、と限りなく小さくなってゆきながら果てしなく同一という無限の繰り返しにどこか似ている。それは、この世ならぬ異界にいざなってくれる通い路のようだ。
 私が本職の装丁の仕事のほかにライフワークとして作り続けている小さな本は、いかなる制約もなく自由なのだが、まず第一に小ささを競うことなく、本文のレイアウトが整っていて、文学書のように文字がきちんと読めるものであること。そしてそこに、箱を開けるときのようなときめきとサプライズ、無限の絵を見るような不思議さと遊び心を感じさせ、さらに内容が面白いものであることに心を砕く。間違っても玩具になってはいけない。
 表紙に高価な皮革を使って、麻糸で丁寧に綴じられたルリュール本は、端正で飽きのこないものではあるけれど、優等生のようで、どうしても面白みには欠けるのだ。重さのない小さな本をルリュール本のようにしっかりと綴じる必要はない。むしろ、どこを省略するかをいつも考えている。単語帳のように、カシメひとつで綴じてあっても本は本なのである。既存のテキストを綴じて衣装を着せるのではなく、自作であれ好きな詩集であれ、本文部分もすべてオリジナルで、レイアウトをしてから表紙を考える。したがって、本文が出来た時点で、本はもう八割方仕上がっているといってもいい。
 私の作る本は、本でありながらグリーティングカードのような、ある時はステーショナリーのような、あるいはギフトボックスのような様々な顔を持っている。どんな形式を選ぶかは、まずその内容によって考える。森の物語なら紅葉した葉や葉脈をそのまま使い、王朝の和歌集なら、本そのものをスライドする扇の形にしてしまう。同じ場所の真昼と日暮れの物語は、右と左に開く二冊の本が、一枚の裏表紙でつながっている。キャラメル箱型のケースに入った高原の写真集、額縁の中の写真にタイトルが箔押された秋のコント、コーネル装スパイラル(らせん)綴じのスケッチブック、幾重もの薔薇の花冠を開くかのように、めくり続けてようやく一枚の絵に出会う本もある。
 長いこと刊行を夢見て、ようやく一九九四年に創刊した、長形三号の封筒にぴったり入る小冊子「邯鄲夢](かんたんむ)は、作り続けて来た本の延長線上にあるのだが、複数制作のため、一冊本とはまた別の楽しみを味わうことになった。今は神保町で営業している古書店「かんたんむ」は、かつて高円寺にあり、窓際に「ユリイカ」のバックナンバーがため息のように積んであった。
 周知のことと思うが、むかし邯鄲の地で盧生という人が、栄華が思いのままになる夢を見る。しかし目覚めてみると、それは豆さえ煮えていないほどの短い時間だったというのである。人の世の儚さの例えとして使われるが、まことにこの儚さのゆえに、人は生きられたり、ものを作ったりするのではないだろうか。
  表紙の形式は、観音開きの四ツ折で、二ツ折り十六頁の本文を、三ミリ幅のリボンで、表紙のいちばん左の谷折の部分にメニュー綴じでセットする。表紙とリボンの色が毎回変わって行く趣向で、本文レイアウトも、毎回違う試みを考えていた。左開き横組で、原則見開き完結。巻頭特集などは長くとも二見開き。縦横の文字組みの混じったコラムランドのようなものである。内容は、アナグラム、回文、当て字、エンドレスポエム、星形やハート型に文字を組んだレイアウト、異国の旧い絵葉書のモノローグ、誰も知らない埋もれた本、亜流本のワンランク下の面白さ、絵画や映画の背景にある小道具のこと、切り取って使える巻末の詩入り絵葉書。相互の脈絡はないのに、それなりに納まってしまうのが妙である。この頃はワープロ版下で、タイトルのみ写植を使っている。
 執筆者は、周辺の友人や編集者、大学教授などで、原稿料は現物支給。筋は付けてあるので自分で折ってもらい、リボンの掛け方も伝授した。
 現代はあらゆるものが溢れているのに、 触れ合う心や遊び心がいかにも少ない。それなら自分で作ってしまおうというのが発端なのだから、風の話を集めたような、遊びの小箱に徹しようと思った。
 演出家の久世光彦さんは、この個人誌をとても気に入ってくださって、「尋ねうたの時間」の漢詩が、『和漢朗詠集』に収録されていることを教えていただいた。『蝶とヒットラー』で、Bunkamura主催の「ドゥ・マゴ賞」を受賞され、その授賞式に呼んでいただいた時に、はじめてお目にかかった。書き急ぐように次々と本を出されて、読むのが追いつかないくらいだったが、正直なところ、初期の『昭和幻燈館』と『怖い絵』に、久世さんのお好きなものはもうすべて盛り込まれているように思った。「邯鄲夢」を「定期購読します」とおっしゃったのに、時はあまりにも早く流れて、忙しさにかまけて一九九五年の第二号までしか出せないままに、久世さんは突然遠くに行ってしまわれた。
 (初出:『彷書月刊』一九九四年九月号)

日本女子大「詩と童話まつり」と諏訪優さんのこと



目白の東京カテドラル聖マリア大聖堂の近くの日本女子大学のキャンパスで、「詩と童話まつり」が開かれていた時期がある。日本女子大学に児童文学究室があった頃で、「目白児童文学」の姉妹誌として、同人誌「海賊」が発行されていた。アドバイザーに山室静、特別同人に立原えりか、森のぶ子、宮地延江、同人に安房直子、森敦子、生沢あゆむなどが名を連ね、児童文学の関係者たちが、年に一度集まって講演と懇親会を開催していた。同人誌の表紙絵は、立原えりかの夫君だった渡辺藤一。印刷は凸版、本文はまだタイプ印刷という時代だった。
 友人が日本女子大に通学していたので、何度かその講演会に誘われたことがある。埴谷雄高三木卓久保田正文の講演、安房直子の音楽にのせた童話の朗読、吉原幸子石垣りんの詩の朗読があり、聴衆は女子学生が多かった。私は立原えりかさんと手紙のやり取りがあったので、終演後に挨拶に行くと、 『あなたも二次会にいらっしゃらない?』とお誘いがあり、いつも携えているスケッチブックとともに、のこのこと近くの居酒屋の二階の大広間まで着いていった。
 まったく予期しなかったことだが、私の座った座布団は、右に伊藤信吉、左に諏訪優という、素晴らしく豪華な場所であった。酔った伊藤信吉さんは、私が信濃追分で描いたゆうすげや萱草や桔梗のスケッチをご覧になると、やおら筆記具を取り出し、裏表紙に大きな文字で「あかまままの/花につらなる/宿四つ。」と俳句を書き付けられた。「信吉」とサインまで入っているので、特に揮毫を頼んだわけではなかったが、あとから考えれば幾重にもありがたいことである。おそらく追分の話になって、軽井沢、沓掛、借宿、追分と四つの宿があるという話になったのだろう。
 諏訪優さんとは何の話をしたかあまりよく覚えていないが、エミリィ・ディキンソンの詩「もしも愛が……」の翻訳者ということは知っていた。


  一時間まつのも長いこと
  もしも愛がすぐそこにあるとしたならば
  永遠にまつのもみじかいこと 
  もしも愛が最後にむくいられるとしたならば
  
 その後、『旅にあれば』という詩集を送ってくださった時、詩集とは、こんな風に縦長の洒落た作りにするものなのだと、学生ながらその判型に新鮮な驚きを感じたのだった。ジャズの会のチラシを頼まれたり、詩の朗読会に連れて行っていただいたりしたが、ほどなく私も社会に出て、いつのまにか疎遠になっていた。諏訪さんが晩年、M子さんという女性と生活していたことはずっとあとになって知った。自分にとっては、少女雑誌や訳詩集で読んだディキンソンやケネス・パッチェンの「天使のようにできないかしら」の訳者としてのイメージだけが長く大きく消え残っていた。『旅にあれば』のなかの、「日本列島は雨季に入る/クチナシの花は肉体のように匂い/肉体のように崩れ」という雨期の湿やかなフレーズとともに。
(写真の本は、エミリィ・ディキンソン詩/諏訪優訳の『もしも愛が……』が収録された 愛の詩のアンソロジー。蜥蜴の革の継表紙に、ハートの上に乗った天使と矢のモチーフが付いている。90×60mm )

カイ・ニールセンと小林かいちの「様式としての嘆き」



 中原中也の恋人だった長谷川泰子の口述をまとめた本を文庫化することになり、その装丁を依頼されたのは、2006年1月のことである。カバーには、小林かいちの版画を使う予定だという。それまで私が見たかいちと言えば、二度の「絵はがき展」の展示作品と古書市で買った数枚の絵封筒だけであった。帝塚山学院大学山田俊幸教授のコレクションの分厚い張り込み帖から何点かを選んだ時、そのおびただしい数と独特の色彩と様式美に圧倒されてしまったのを覚えている。
 絵封筒の色数は、2〜4色、多色という訳ではないのに濃厚な印象を受けるのは、深々とした赤、黒、金、銀、ピンク、薄紫などの取り合わせのためだろう。赤とピンクと薄紫は、まかり間違えば風俗店の看板になってしまいそうなあやうい配色なのである。遠い昔、美大受験のための予備校で、決して使ってはいけないと戒められた記憶に残る色である。そんな潜在意識のためか、大量のかいち作品を見た時に感じた秘め事のようなただならぬ気配は、多分にこの色彩に負うところが大きい。
 好んで使われているモチーフは、ハート、星、薔薇、クローバー、すずらん、蜘蛛の巣、トランプ、蠟燭などで、頻繁に目にとまる赤やピンク色のハートは、時に涙を流していたり、十字架に刺し貫かれていたりする。クローバーもすずらんもハートのヴァリエーションとも言えるし、トランプは赤いハ−トのエースである。それらを巧みに配した背景の前に、繰り返し描かれているのが、過剰なほどの嘆きに身をふるわせて哭く女である。
 ノルウェイの民話にデンマークのカイ・ニールセンが挿絵を描いた『太陽の東 月の西』という絵物語がある。魔女の呪いで白い熊に姿を変えられたトロルの王子の花嫁になった娘が、夫の顔を見たばかりに、金銀に彩られた城は消え去り、ひとり深い森の奥に取り残される。直線の木立に囲まれて半円の丘で哭き濡れるヒロインの図は、傑作といわれるこの絵物語のなかでも、見るものにとりわけ強い印象を残す。
 二ールセンの慟哭する娘と酷似したかいちの絵封筒がある。ポーズ、衣の襞、髪の流れなどがそっくりである。シャンデリア状の蠟燭も、同書の挿絵に見ることができる。ごく初期の作品らしく、サインもなく線もたどたどしく洗練されていない。しかし、”哭く女“に関していえば、ここにひとつの原型があるように思えてならない。
 だが、ニールセンの絵には物語が不可欠なのにくらべ、かいちの絵は様式としての嘆きの姿であり、必ずしも物語を必要としない。目鼻が簡略化されていたり、何もなかったりすることで、顔の個性は消されて、身体や仕草で感情を表現する舞台女優としての役割だけを与えられているようである。
 ニールセンの絵が華やかな大舞台の群像劇であるとするなら、かいちのそれは、簡素な舞台背景のひとり芝居のように見えてくる。ヒロインを含めたモチーフのすべてが、絵葉書や封筒といった小さな四角い舞台の上で、現実にはありえない美しい絵を構成するための舞台装置なのではないか。それを知っている観客には、女優たちがどんなに上手に嘆き悲しんでいても、胸を刺すような悲愴感は、それほど痛切には伝わって来ないのである。
 やがてかいちの独自の画風が花開く。京都新京極さくら井屋の封筒や絵はがきの絵を描いていたのは、大正の終わりから昭和のはじめの約10年間位と推測されている。
 その後も含め、かいちは長らく謎の作家だったが、遺族が判明した直後2008年の3月初旬、「季刊銀花」第154号の取材で、かいちの次男の小林嘉寿さんのお宅に伺った。 
 子どもたちの記憶にあるのは、スーツ姿で帽子をかぶり、専属図案家として、昭和29年から7年間勤務していた鷲見染工に自転車で出勤する、長身でお洒落な父の姿である。優しく物静かで口数も少なく、叱られることも滅多になかった。それゆえ、過去の出来事や仕事のことを、あれこれと語ることもほとんどなかったのだろう。かいちの血を引いてか、嘉寿さんも絵を描き、近くの喫茶店に飾られていた自作がきっかけとなり、父が謎の画家小林かいちだったことが判明した。かいちの絵はがきや絵封筒は、すべて兄弟が生まれる以前のもの。着物の図案家としての父しか思い当たらなかったのだから、最初は半信半疑だったのだろう。
 若き日の前衛的な紙の仕事と、後年の古典的な布の仕事。そのどちらもが、描かずにはいられなかった人間かいちの生の証である。
 天保年間から長い歴史を刻んださくら井屋は、平刷り木版職人が少なくなり、残念ながら2011年に閉店したという。
 いつかは作りたいと思っていたかいちの小さな手製の画集。それがこの取材を機に図らずも完成した。絵封筒からかいちの好きなモチーフのハートや薔薇やトランプ、街灯などを選んだ折本で、スエード風の朱の紙クロス製の帙入りである。その留具は、かいちの絵にもしばしば見られるハートのエースをあしらったものである。

荒巻義雄『時の葦舟』と在りて無き世、または入れ子の夢

 天井も壁も床も鏡で作られた万華鏡のような部屋に入ったとき、果てしなく続く鏡像はすべてが虚像なのだろうか。もしや自分自身がすでに虚像であり、この世界そのものが、だれかの夢のあるのではないか、と思わせる物語が、荒巻義雄の『時の葦舟』である。
 物語は「白い環」「性炎樹の花咲くとき」「石機械」「時の葦舟」からなる幻想SF短篇連作集である。それぞれの登場人物は時空を超えて生まれ変わり、別の人物として蘇る。
「白い環(かん)」は真っ白な塩でできたソルティと呼ばれる集落の物語。この街は垂直に繁栄した崖の街で、対岸の鏡面に街のすべての様子が鏡像になって映っている。ゴルドハは、河の水を汲んでは水売りをしているが、身体がきついだけで、喜びも大きな利益も得ることができない。ある日、天辺の台地に行ったゴルドハは、仕留めた大トカゲを街で売り、その成功を機に水汲みから狩人となり、次第に街で名を馳せるようになる。ゴルドハが鏡面を見ながら憧れていた女性、高貴で美しいクリストファネスから文書が届く。字の読めないゴルドハは、日頃運命をみてもらっている占い師のセビアにそれを見せると、果たしてそれは面会の申し込みであった。
 クリストファネスは、ゴルドハに白い環に行って、そこに碇泊している蓮華船のなかにいる者に書状を渡してほしいと頼む。短剣を持って崖伝いの道を下り、ゴルドハは白い浜に出た。巨大な船の上は、それ自体ひとつの街だった。そこにひときわ大きく聳える王宮の最後の部屋は、上も下も右も左もない「鏡の部屋」であった。そして突然現れた男は、ゴルドハ自身であったのだ。ゴルドハが彼に書状を渡すと相手も渡し、字の読めないはずのゴルドハは、自分に宛てた文面を理解することが出来た。
  「ゴルドハよ、
  〝鏡〟の呪縛より逃れなさい 
   お前の手でお前を殺すのです」
 鏡像の二人は相手の脇腹を刺し、その時、鏡の崖は滑るように剥落し、ソルティの垂直の街はなだれをうってことごとく消失した。
 「性炎樹の花咲くとき」は、黄緑色の浅海に浮かぶ蓮華状の街エロータスが舞台で、主要な生まれ変わりは登場しないが、「石機械」の主人公で石工技師のKが恋心を抱くアフロデは、「性炎樹」の脇役であるエローズの雰囲気をまとっている。Kは、アルセロナという岩石地帯の街に住み、石鐘楼の巨大な砂時計が、永遠とも思える細かな砂を落とし続けているのを、まるで時をすり減らしているように思うのだった。Kが子どもの頃から、絶えることなく落ち続けて時を刻み、死んだ時間がほんの少しずつ堆積してゆく…。
 石鐘楼の内部の基壇はドーム状になっていて、石(アル)と呼ばれ、太くて大きな石柱にも、天蓋にも、壁体にも涙がこぼれているような模様が彫り残されている。その頃、砂時計が流れの速度を変えたのを、まだ誰も気づいていない。
 アフロデが近衞士官に嫁ぎ、虚脱感に放心して石鐘楼の中にいるKに来訪者がある。アルセロナの女皇であり、クリストファネスが変身したセミラミスである。左利きのKは、もちろんゴルドハの生まれ変わりであろう。彼女に促されて壁の模様の中の文字を読む。
  そのとき
  石は浮揚しつつ火射を放つ
  夢魔  
  去る ふたたび
 壁は兵士によって塗りこめられ、Kは拘束された。何日か王宮の闇の中の独房に閉じ込められたあと、食事を運んできていた女が彼を自由にし、複雑な闇の迷路を案内して、水によって昇っていく昇降機の前にたどり着いた。のぼりつめると突然視野が開けた。そこは凹状にえぐりとられた巨巌の頂上で、階段と幾層ものテラスの内側に、贅を凝らした空中庭園が造られていたのである。アーチの一角のバルコニーに、女皇セミラミスの姿があった。
 彼女は石を使った空中機の開発を夢見ており、古形文字を解読したKに飛行機械の研究を託したのである。Kは階下に書庫を持つ房を与えられ、研究に没頭した。
 ある日、セミラミスはKを搭上に導き、標石の指す方向をむいて語り始めた。
 「その昔、そこに大いなる大地があった。そこに鏡の崖と向きあう一つの街があり、人々は平和に暮らしていた。が、あるとき大地がとどろき、大地がさけ、大洋がおしよせてきて、その大陸とともに街は海の底に沈んだ。そのとき、渦巻く津波の狂乱の中から、大いなる岩(アル)が、天にとびあがった。岩は名残りをおしむように、海にへむけ飛翔し、やがて蒼穹の彼方に消えていった…。」
 自分たちは、呪われて滅びた聖なる街の子孫だとセミラミスは言うのである。その大いなる岩とはどんな力によって空を飛んだのだろうか。
 空中庭園の仕事場で、古び欠けた石版解読を試みているKのところに、東方の商人から買ったという衣装を纏ったセミラミスがやってきて、商人から聞いた異国の合金の飛行物体の話をする。Kは、石版に切れ切れに記された記録の断片を語る。
 「始源は混沌(プラズマ)にあった。あるとき、宇宙はふたつに分離した。やがて宇宙はふたたび始源に回帰するであろう。そのとき一切の形あるものは滅びる。ただ、霊的なる存在のみが、生き残る」
「大いなる時の流れがその命脈を尽たときをもって、おわりをつげる。形あるものが仮の姿であるのと同様、形あるものを形あるものとして現出させている時もまた、仮のものなのである。」
 やがてKは空飛ぶ石機械を開発し、衆人の眼のまえで、その飛行物体に乗り込む。砂時計の砂が残り幾ばくもないことを、いまやKもセミラミスも知り抜いている。
 …砂時計の持ちこたえた有限の命脈は、最後の一粒の砂の落下とともに尽て、仮現の夢は終わった。岩陰でひっそりと嘆き匂うていたアルセロナの街は、消え失せていた。…
 「時の葦舟」は、天まで届く大木である世界樹カニシュタの聳える村が舞台である。羊飼いのボーディが、長者の娘アジタの家の庭園を巡る回廊に描かれた、不思議な四枚の壁画を見る。一枚目は白い崖の街、二枚目は巨樹の下での狂宴、そこから逃げ出す少年少女が描かれている。三枚目は奇妙な砂時計のある石の世界。灰色の空に、まさに墜落しようとしている乗物とその乗員が描かれていた。最後の一枚は、大樹におおわれた彼らの現在住む村落の風景だった。
 村の浴場で、ボーディは知恵者アルハットにこのことを話す。彼は、壁画は誰かが描いたのではなく、あたかも裏側から描かれたようこちら側に映しだされたものだという。
 アルハットが戻った小屋で呪文をとなえると、小屋の裏側にゆらめく光の通路が出来、アルハットの無数の映像が映っている。この多次元の迷路を乗り越えながら、アルハットは紫の小部屋からあらわれたクリストファネスと、ゴルドハやアフロデやエローズの行く末について語った。そして夢を見たボーディは、彼らの話をその夢のなかで聴き、アジタはしきりに画の中に入ろうと誘うのだった。
 ボーディは大いなる時の流れの中で、日々の出来事がうたかたに過ぎぬことを悟る。アジタの部屋に案内されたボーディ。部屋は真昼のように明るく上部がアーチ状になった大きな窓があった。その窓の向こうにあるのは、青い海である。窓は「記憶の窓」と呼ばれている。部屋には、円く模様の浮き出ていて回転する「世界儀」があった。いくつもの天井の高い部屋部屋が連なり、いつしか前と同じ部屋にきていることに気づく。ふとみると、世界儀を見ている自分とアジタがいる。こちらが夢かあちらが夢か、もうボーディにはわからなくなっている。
 「この世はだれかの夢にちがいない。そうしなければこの世界の色々な不思議な事柄が説明できぬ」とアルハットは言う。ではいったいその者とはだれなのだろうか。
 長者の回廊の壁には、第五の壁画があらわれていた。

(この本の初版は1975年、わが古巣から出版された。ただしその時はまだ入社していない。所持している本は1979年の講談社文庫で、こちらの装画は横尾忠則。神秘なクリストファネスのイメージにより近いように思う。)