戦歿学徒宅島徳光の『くちなしの花』と旺文社文庫、渡哲也の「くちなしの花」

宅島徳光(のりみつ)は、大正10年福岡市博多区生まれ。奈良屋小学校、県立福岡中学、慶応義塾大学法学部、昭和18年学徒出陣により海軍予備学生(第十三期飛行予備学生)として三重海軍航空隊に入る。出水、宮崎の各航空隊を経て昭和19年5月海軍少尉に任官。8月松島海軍航空隊附。20年4月金華山沖にて任務中遭難死。享年24歳。

遺稿集『くちなしの花』を読んだのは、いまはなき旺文社文庫で、神保町の書泉グランデで買ったレシートが挟んである。旺文社文庫は、内外の数多くの古典名作や純文学を中心に、旺文社らしい質の高いラインナップを揃えていたが、創刊22年目の1987(昭和62)年に廃刊している。松永伍一の『悪魔と美少年』やシャトーブリヤンの『アタラ・ルネ』などをよく覚えているが、昔読んだ本を再読していると、その質の高さを再認識し、もうこれからはかつて読んだ本と関連書の再読だけでよいとすら思う。

『くちなしの花』は、昭和19年1月から5月迄の、出水海軍航空隊にて書かれた徳光の遺稿と、愛する人々への書簡(検閲済)、十八歳の日記(慶応義塾大学予科時代)の三部構成になっている。徳光の恋人の八重子は、知人の下宿していた家の娘だった。昭和19年6月、八重子から求婚された徳光は、いのち短いわが行末を思って、心ならずも断ってしまう。この時代においては、それは所詮一人の若い未亡人を残すだけではないか。あるいは、一人の父親のない子供を。八重子に手向けを頼んだくちなしの花は、亡き母輝世も好きな花だった。そして、その花はまた、戦争末期の当時、口に出していえない「くちなし」という寓意をもふくませていたらしい。

渡哲也のヒット曲「くちなしの花」は宅島徳光とはまったく無関係だと思っていたが、今回文献をあたるうちに、無関係どころか徳光の遺稿からインスピレーションを得た歌だったのだ。

 「俺の言葉に泣いた奴が一人
  俺を恨んでいる奴が一人
  それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人
  俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人
  みんな併せてたった一人……」

戦歿学徒の遺書を朗読してもらう企画を進めていたディレクターから、水木かおる遠藤実に作詞と作曲の依頼があった。曲のタイトルは「くちなしの花」と決まっていた。くちなしの花は、雨に打たれて白く咲くけれども、花期はみじかく、たちまち崩れてしまう。あたかも24年という徳光の儚いいのちのように。

 白いくちなしの花がーーかつて夏の盛りを病床に過ごした時、母が庭先から摘んできてくれたのを思い出す。二ヶ月の永い病床の生活だった。そして昨年は、母の病床に飾ってあげた白いくちなしの花だった。(十八歳の日記)p51
 かつてこの椿に、紅い椿に似た人がいた。そして、椿のように我儘で、椿のように悧巧であった。(遺稿より)

一方、紅い椿の花は長く咲き続けて、天寿を全うした八重子の如くである。くちなしは、八重子へ寄せる想いではなく、徳光と母堂との甘哀しい追憶の宿る花なのだった。それが「くちなしの花」という歌となり、作詞家と作曲家のラインに渡った時点で、断腸の思いで求婚を斥けた宅島徳光が主体だったこの内容は、みずから別れていった薄幸のヒロインに逆転し、身を引いた女性を偲ぶ哀傷の歌となっている。つまり、ふたつは別物であり、別々に鑑賞すべきものなのだ。

余談ながら、遠藤実に宅島徳光の遺稿を見せたのは、曾野綾子という説と、小学校の親友でロッキードリクルート事件を激しく追及した国会の爆弾男・楢崎弥之助という説がある。曾野綾子説は、遠藤自身が書いているので確かなことと思う。しかし曽野は、その当時はわからないが、現在は国粋主義者のイメージが強すぎて、遺稿のなかでまるで昨今の状況とも酷似している世相を、下記のように書いていた徳光の無念を思うと、どうしても受け入れがたかった。

 新聞記者のつくる合法的な嘘、社会を歪曲なものとする大罪の一つである。(遺稿より)p28

 閉塞された輿論の中で、国民は忍耐と締念のみを強制され続けてきたのであるから、真相を把握するだけのデ—タを有しない。マンネリズムと、そしてデマゴーグによって、社会を動かしてきたことの旧悪の暴露である。国民の輿論の核心となるべきジャーナリズムの罪であり、さらにジャーナリズムの言論を制約せしめた一つの、ある強権力の罪である。(遺稿より) 

昭和19年11月15日の最後の日記には、戦友荘田少尉と湯田少尉との死が綴られている。(この部分は毛筆で書かれている)。そしてそれに続く末尾の十三首の短歌のなかには、なお現世と八重子への未練を吐露した歌が含まれているのだった。

 散る身とて 世つぎ家つぐ 白銀の 宝に勝る 吾子を欲りせり
 吾が恋し 多摩の川べの 八重桜 色はにほへど 実のならずして

昭和20年には、男子は「人生わずか25年」と言われていたが、それよりもなお少なく、徳光は敗戦のわずか4ヶ月前に命を落とした。徳光の浪漫的な思考は「十八歳の日記」の全編を貫いているが、従軍中の日記には、もちろんその影は薄れ、実際にあったであろう理不尽な出来事については、一切触れられていない。

 日傘の陰に、碧いプリンセスのワンピースを着て、何気なく行き過ぎる君の夢もみた。(遺稿より)
 くちなしの花が萎れている。沈思の少女のような格好で。今日も黄昏だ。黄金の光りとばらの香りが涅(ただよ)い始める。(十八歳の日記)

 ◉参考:くちなしの花「二木紘三のうた物語」

 

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旺文社文庫『くちなしの花』

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1945年3月9日に、八重子が徳光から受け取った写真

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英訳された『くちなしの花 1945年―生きることと死ぬことと』出版芸術社