オーカッサンの情熱、ニコレットの理性

yt0765432010-08-06

 作りたい豆本の「辞典」のジャンルに、『登場人物辞典』と『恋人たちの辞典』がある。『恋人たちの辞典』は、頁に限りがあるので、ほとんど出典と作者、恋人たちの名前とプロットだけになりそうだが、その筆頭に『オーカッサンとニコレット』が挙げられる。
 「季節はいくたびもくりかへす。そして、人の心は、おなじ道をいくたびもさまよふ。」ではじまる、立原道造が婚約者水戸部アサイに献じた「物語」のあとがきに、“僕は「アンリエツトとその村」のことを告げねばならない。それは僕のふるい少年の日からの美しい夢だつたのだ。「村のロメオとユリア」や「オオカツサンとニコレツト」や「エリーザベト・ラインハルトのみづうみの物語」になぞらえて、色鉛筆で僕とアンリエツトとふたりを主人公にして、一しょう懸命に織つてゐた夢だつたのだ。”と書かれている。
 『オーカッサンとニコレット』の古雅な響きに、それはどういう物語なのだろう?と実に長いこと「待ちこがれた物語」だった。エリーザベトとラインハルトの物語も、村のロメオとユリアも、ポールとヴィルジニーの物語もすぐに読むことができたけれど、ようやく古川達雄氏訳『オウカツサンとニコレツト』二見書房版を神田の田村書店で掌中にしたのは、それから10年以上も経ってからだった。昭和22年刊、文庫サイズの上製本で、継表紙、四隅も三角に継がれた瀟洒なコーネル装だった。立原は昭和13年に亡くなっているので、彼の見た本は、おそらく大正12年刊行の 團伊能氏訳『オオカツサンとニコレツト』だろう。昭和27年刊の岩波文庫で、訳者川辺茂雄氏が「バラ色の表紙の菊半截判、袖珍型の美本であつた」と紹介している。袖珍本(しゅうちんぼん)とは、着物の袖に入るような小型の本のことをいう。

 これは13世紀中世フランスのシャントファーブル(歌物語)で 、約10枚のパーチメント(羊皮紙)の表裏に、ローマ音符の楽譜入りで筆写されたもの。作者は不詳、現存するのはパリ国立図書館のただ一部のみということである。二見書房版には、口絵にパーチメントの一葉の写真が載っていて、最初に楽譜、その下に物語が書かれている。古風な訳は「さて、歌となりまする」と冒頭に歌い出で、次に「さて、語り出でまする」と語りと台詞が始まる。
 竪琴(リラ)を持って語り歩く吟遊詩人(トゥルバドゥール)のうたの調べにのって語りつがれ、その物語があまりに素晴しかったので、これを書きとどめずにはいられなかったのだろう。川辺氏が、ソルボンヌの教室で女学生がピアノを弾きながら唄うのを聞いた印象では、素朴と優雅が、物語のように不思議な綾をなしていたということである。
 この物語は何度か上演されているが、今年2010年1月に、私の誘いは決して断らない友人の編集者瀬戸井厚子さんと、満員のアイピット目白で空中カタカナ団の舞台を堪能した。主役ふたりは、純白の衣装にナチュラルなメイク、脇を固めるベテラン陣は、白塗でカラフルな衣装、若い恋人たちが際立つような構成になっている。
 オーカッサンとニコレットは愛しあっているが、オーカッサンはやがてボーケールの王になる身、城代がサラセン人から買って養女にした女奴隷ニコレットとの愛が許されるはずがない。ニコレットは幽閉、オーカッサンは想い焦がれて憔悴する。ニコレットは知恵をもって部屋から脱出、森に逃れ、花を摘み、草を盛って庵を作る。ちいさな簡素な舞台だったが、縦に何枚も接ぎ合わされた真っ白な布の途中に空き口があり、そこから花を持った手が次々と現れて、ニコレットが花を摘み、花束を作る。この演出は秀逸だ。さらに継ぎ目の一枚の布が、暖簾のように途中までくるくると巻き上げられる仕掛けになっている。
 『枕草子』第二百八十段、雪が高く降った朝、中宮定子の「香炉峰の雪はいかならむ」との問いに、白居易の七言律詩中の「簾を撥げて看る」に倣い、清少納言が御簾(みす)を高くかかげた様子を思い起こさせる。巻き上げられた向こうに花の庵があって、ニコレットの雪のような白い衣装が覗いている。
 二コレットは、森で出会った羊飼たちにオーカッサンへの伝言を頼み、ようやく二人は森の庵で再会、舟に乗ってともども故国を脱出する。烈しい嵐の果てに漂着したのはトールロールの港。この地で愉しき三年ばかりを暮した頃、サラセン人の侵入で二人はまたも別れ別れに。オーカッサンは母国ボーケールに連れて行かれ、二コレットはカタルヘナへ、ここで、彼女は幼時に誘拐されたこの国の王の娘だということが判る。しかし異教の王との縁談を逃れるため、胡弓を持って旅芸人の若者に身をやつし、数年をかけてオーカッサンのもとへと辿り着く。
 ヒロインが高貴な出自であったという貴種流離譚はよくある話で、この物語も大団円で終わるのだが、波乱万丈のストーリーとヒロインの健気な行動力に対しては、この結末が最もふさわしいと思われる。それにしても、勇敢だが、想い焦がれて部屋に隠ってしまうオーカッサンと、知恵と理性と行動力で難局をみずから乗り切るニコレットニコレットの方が役者が一枚上という古川氏の感慨には深く共感する。
 いつ完成するのか、『恋人たちの辞典』のラインナップには、シュトルム「エリーザベトとラインハルト」のほかにも、メーテルランク「ペレアスとメリザンドロンゴス「ダフニスとクロエー」テオフィル・ゴーティエ「ジゼルとアルベルヒト」ロマン・ロラン「ピエールとリュース」アナトール・フランス「アベイユとジョルジュ」ウイリアム・モリス「オズバーンとエルフヒルド」などなど…。三島由紀夫の「苧菟と瑪耶」も忘れてはならない。