「季刊銀花」と金銀花またはスイカズラのこと

写真:小林庸浩

 「季刊銀花」が、2010年2月、第161号をもって終刊になった。4〜5月には、善福寺葉月ホールハウスに於いて、「銀花」に連載されていた『“手”をめぐる四百字』の原稿と表紙の変遷の展示と朗読会、朗読劇があった。歴代の編集長や懐かしい先輩方に久方ぶりで再会し、感無量で、そのあとの会食に遅くまで話の花が咲いた。
 和名スイカズラ(忍冬)の花は、中国では金銀花(ジンインホア)と呼ばれる。はじめに白い花が咲き、やがて黄色になって、同時にひとつの枝に違う色の花がつくので、金銀花といわれた。『中国の花物語』(飯倉照平著/集英社新書)には、金花、銀花という姉妹の伝説の哀話も紹介されている。冬にも葉が枯れないので、忍冬ともいう。
  「銀花」の名付け親は、もと文化出版局長だった故今井田勲氏だった。今井田さんは主婦の友社から出征を経て復員、独立起業、その後、まだ社員数も20数人という文化服装学院出版局に招かれた。そのとき、「装苑」(jardin de mode) はすでにあったが、婦人雑誌の企画が上がったとき、今までにない洗練されたクオリティの高い雑誌にしたいと考え、「ミセス」と命名した。サイズも今でこそ主流だが、その頃は画期的だったワイドなAB判で、当時の婦人雑誌の三種の神器を載せないことが鉄則である。
 やがて、趣味の雑誌を作りたいと考えたとき、これはぜひ日本語でと思い、「歳時記」をひも解いたものの、なかなかよい言葉に出会えない。ようやく「冬」のところで、「雪」の異名として「銀花」に巡りあう。さらに漢和辞典を引くと、1.燈火のこと 2.雪のこと 3.忍冬の白い花のこと とあり、イメージがぴったりだった。
 私は、「銀花」に比較的多かった民芸的な記事ではなく、アーサー・ラッカムの『ケンジントン公園のピーター・パン』の挿絵本に瞠目して、高校生の時、初めて本を買った。コレクションを写真入りで解説した『私の稀購本〈豆本とその周辺〉』(丸ノ内出版刊)を手にして、著者の今井田勲氏が当代きっての豆本のコレクターであることも知った。だからといって入社したいと思ったことはなかったが、縁に導かれて、今井田さんに出会うことになった。
 入社してみると、恩師で書物研究家の庄司浅水先生、藤枝の現代豆本館館長の小笠原淳さん、学習院大学のフランス文学の教授で作家の福永武彦先生、学生時代に知遇を得た方々がすべて、直接間接に今井田さんとの縁で結ばれていたのだった。当時はっきりと認識していた訳ではなかったが、庄司先生には、実物を拝見しながら西洋の選りすぐりの稀購本を、福永先生には、趣味を通じて深い人生そのものを、今井田さんには、出版の情熱とこころざしを、指南していただいたと思う。
 入社試験のひとつは、石川達三先生のお宅にお電話をして、お原稿の催促をしなさい、というものだった。まず奥様にきちんとご挨拶をして、先生と代わっていただくこと。ところが奥様は、のらりくらりと場を延ばし、一向に先生と代わってくださらない。やっと原稿の件を承諾していただいた時には、右手にぐっしょりと汗をかいていた。審査員方は笑いながら、困っている様子を存分に愉しんでいる風だった。入社してから、局長の秘書の方が、「あの奥様は私よ。電話番号は内線よ」と、タネ明かしをされて、はじめてからかわれていたのが分かった。この時の入社試験の模様は「ミセス」連載の「編集中記」にも書きとどめられている。(のち単行本『鶏留鳴記』湯川書房刊に収録)
 このことを福永先生にお話すると、「君は僕のところに手紙を書いたり電話したりしていたから、心配ないだろう。敬語も大丈夫」と言われた。まったく自覚のないままに予行演習をしていたことになる。福永夫人は、すぐに電話を代わってくださる方であった。
 私の最初の仕事は、赤坂山王ビルにあった「銀花コーナー」で和綴のノートを買ってきて、蔵書印を押すことだった。
 4月下旬の新入社員たちの「局長を囲む会」で、今井田さんは、当用漢字の話や、戦争で船が沈没しそうになり、九死に一生を得たことなどを話して下さったあと、「八百屋さんなら野菜を、靴屋さんなら靴を売るけれど、さて、君たちは何を売るの?」と問われたが、誰も答えられない。「紙でもインクでもない、では紙にインクのついたものか? 違うだろう、編集者は感動を売るんだよ」そして、本は、いろいろな分野の方にお願いして仕事をしていただくのだから、作家に「書かせる」とか「使う」という言葉は、うちでは絶対に言ってはならない、とつよくおっしゃった。その日のことは、いつまでも眼の奥耳の奥に残った。
 今井田さんは、早々に退職してしまった私に、小口三方金総革夫婦(めおと)函入見返しマーブル装の本など、幾册もの限定本や豪華本の装丁を任せてくださった。普及版のほかに百部ほど凝った異装本を作ったりする風流な時代だった。愛おしむように少部数造られた限定本にふさわしい、含蓄を持った著者や読者の存在した時代だった。
 福永先生の山荘のあった信濃追分に停まる旧信越線は、新幹線開業にともない、軽井沢から乗り換える「しなの鉄道」というローカル線になってしまった。中仙道と北国街道の分岐点である追分は、江戸時代に宿場町として大いに栄えたが、鉄道の施行と新幹線の開通で二度寂びれた。詩集を持って訪れる女子学生ももういない。
 横川を過ぎて軽井沢に近づく頃、ゆっくりと姿を現わす浅間山が視野に入るたびに、いつも変わらぬ新鮮な感動で胸が騒いだ。追分の野ではじめて黄色なゆうすげの花を見たとき、はじめて会いたかった人に会ったとき、はじめて小さな本を見様見真似で自分の手で作ったとき、その「はじめての感動」をシンボリックに包含するのが浅間の姿なのである。「君たちは感動を売るんだよ」という言葉とともに、この感覚を摩滅させないことが、自分自身の感性のバロメーターのように思えてくる。
(写真:小林庸浩)