美作八束村とアカシヤの花

神田川と聖橋

 御茶ノ水橋を渡り、順天堂医院を右に見て、神田川沿いを歩いて本郷の出版社に行く途中、新宿方向の右岸に、ニセアカシヤ(ハリエンジュ)の樹が幾本も連なっていた。初夏には、白藤に似た花が咲いた。風の強い日には、その白い花房が一斉に水平に煽られてふるえていた。佐藤泰生の、暴風雨(あらし)の泰山木を描いた日本画「洪」のように。
 対岸のビルのひとつは、高校生の頃通った美大の予備校で、当時は連日味けない石膏デッサンばかりを描かされていた。食パンのいちばん美味しい部分は、木炭デッサンの消しゴムとして消費されてしまうので、残った耳を丸めて、下を通る総武線の黄色い列車にぶつけては、憂さ晴らしをしていたものだった。
 アカシヤの樹はその後、沿岸工事でいとも無雑作に切り倒された。いまは初夏になっても、揺れる白い花房はもう見ることはできない。けれど、 細長い楕円の葉が重なり合ってさやさや鳴る葉ずれの音は、いつまでも耳の奥に消えずに残った。
 その葉ずれの音は、父の転勤で4歳からの4年間を過ごした岡山県北(美作=みまさか)と鳥取の県境の山村を思い出させた。岡山といっても、上蒜山中蒜山下蒜山の麓、ほとんど山陰という趣きの、店鋪や娯楽施設が近隣に皆無という寒村であった。 しかし、都会育ちの子どもにとっては、新鮮な驚きに満ち満ちていた。川で泳ぎ、畑でスキーをし、苺、葡萄、桑の実などの食べ放題の果実、小川のなかの紐状のカエルの卵、ホタル、トンボの飛び交う山村は、あふれるばかりの自然の宝庫だった。
 せせらぎを越えて森へ入り、樹々の葉叢を抜けると、わずかに空の見えるひそやかな草地があった。そこは誰も来ない自分だけの夢の王国だった。草地に敷いたハンカチは、たちまち縁飾りのあるクロスを掛けたテーブルになり、貧しい菓子は極上のケーキに変身する。摘んできた木苺はジャムやゼリーになって、真昼の月のスライスも載っている。心地よい葉ずれの音を聞きながら、私は至福ともいえる空想の時を過ごすのが常だった。
 村の名前は、八束村(やつかそん)。「古事記」のスサノオノミコトが、切り落とした八叉大蛇(やまたのおろち)の頭を束ねたという伝説に由来する。近くに川上村、竜頭(りゅうず)という地名もあった。村の旅館の名は「竜泉閣」といった。天然記念物のオオサンショウウオが棲息していた。横溝正史の『八墓村』のモデルではないかともいわれているが、双子のおばあさんはどこにもいなかった。いちばん近い小都市津山の1938年(昭和13年)の30人殺しという惨劇はかつてあったが、八束村にはこれといった事件もなく、残照に輝く黄金杉だけが村の名物という、いたってのどかな場処であった。
 父は珪藻土(けいそうど)を採取している工場の総務課に勤務していて、月に一度、鳥取の倉吉工場に県境の犬挟峠(いぬばさりとうげ)を越えて、従業員の給料を取りに行っていた。
 その東の県境の人形峠には、かつてウラン鉱山があった。日本一有名な兄妹の妹の名がウラン。可愛らしい響きさえあるこの名に、私はずっと不穏な違和感を抱いていたが、アトムとウランは、思えば切っても切れないものだったのだ。アトムは原子、原子力原子力に強い恐怖感はなかったが、子どもごころにぼんやりと、ウランは危険なものという認識があったからだ。
 若き日にドストエフスキーの『罪と罰』を描き、『朝日ジャーナル』に「ネオ・ファウスト」を連載中の61歳で亡くなるまで、反体制の人であったはずの手塚治虫が、なぜウランなのか? 人間の心を持ったロボット、アトムの誕生は、近未来の2003年4月7日の設定だったが、実際に描かれたのは1952年(昭和27年)。その時原子力は、日本という国にとって、来たるべき輝かしい未来の繁栄と成長の夢だったのだ。
 アトムの生誕の地、JRの高田馬場駅では、発車の際にアトムのテーマソングが流れる。3月11日以降、そのメロディーは、今までとは違う響きで耳の内側に絡みつくようになった。


(初出=個人誌「邯鄲夢」1995年第2号より改題、改稿。写真は、御茶ノ水橋から撮った神田川と聖橋。橋の向うに地下鉄丸の内線が通るまで待ったが、現在の銀に赤いラインの車体ではなく、昔のように真赤だったなら、緑のなかの美しい差し色になったことだろう。)