三島由紀夫から佐々悌子への手紙

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 三島が市谷自衛隊駐屯地で自決してから四年後の1974年(昭和49年)から75年にかけて、「週間朝日」に連載された「三島由紀夫の手紙」というひとつの手記がある。元参議院議員紀平悌子さんの若き日の回想録である。この連載は、三島からの手紙というばかりでなく、学生時代の悌子さんが、私にとってまばゆいばかりに魅力的だったために、いまもって脳裏に灼きついているほどに強烈な感銘を受けたのである。政治の世界に身を置いていたがゆえに、謂れのない中傷を受けて単行本にならなかった「幻の手記」とも言える。
 
 平岡公威(三島の本名)の妹美津子と彼女(旧姓佐々悌子)は、聖心女子学院の同級生で、親友だった。敗戦後の昭和20年、疎開先から戻った彼女が松濤の平岡家を訪ねると、すでに美津子は腸チフスで他界していた。東大法学部在学中で新進作家だった三島をはじめて間近に見た彼女を、彼は渋谷の駅まで送ってくれ、この日から二人はたびたび会うようになる。
 歴史観、人生観、文明論、演劇、哲学、政治、芸術論、二人は時を忘れて語り合ったが、それは普通の若い男女の会話とは程遠かった。女としての印象を与えることを極度に嫌っていた彼女は、わざとぶっきらぼうな言葉を使い、始終議論をふっかけた。しかし彼は「テコちゃん、いくら男言葉を使おうと、君は客観的に見て、十分ゴージャスなお嬢さんだよ」「ネコのお色気は男にしかわからない。君はまさしくネコですね」と言う。手紙の中でも「今まで凡そ君のように聡明で溌溂とした魂を持った女性を僕は知りません」と書いている。彼女は、当時の三島と互角に話すことのできたごくごく数少ない少女のうちの一人だったのではないだろうか。
 「愛すれば愛するほど、肉体から離れたい。ピアニストのような手でもロシア人の喜びそうな黒いヒトミでもない、公威さんの“知性”だけが私の愛の対象なのである。」と彼女は日記に書いている。「愛には絶対というものがない。愛の言葉はいつか消える。その瞬間が終われば“頂点”から下るだけだ。その下り坂が怖い。」彼女の欲しかったのは、北条誠の小説的愛の仕草ではなく、しっかりとその手に掴むことのできるもの、「知的な言葉」「知識」「胸を打つ哲学」だった。極限状態の瞬時の手の触れ合いに濃密な火花を散らす「地下運動の恋」の方に憧れていた。彼女は三島に“兄”のような愛情を持っていたが、彼がその恋愛観を理解していたのかどうかは判らない。
 「目をじっと見つめて話すのは欧米式で僕は嫌いだ。女性は伏目がちで上品な言葉使いをするものですよ」と言っているように、根本的に保守的な女性観の持主である。
 一人娘の完璧なレディー教育に情熱を傾ける父親を描いた「女神」という短編がある。「女の注文すべきお酒は、第一にリキュールやワインやキュラソーや甘いカクテルでなければならぬこと。第二に、その日着ている洋服に合ったもの(色)でなければならぬこと」など、「〜でなければならぬ」で埋め尽くされた教育だが、この教義は、そのまま三島の女性観に重なっているのではないか。しかしその古典的な彼の目にも、彼女の小気味のよい現代性と激しい生命力は、素晴らしく新鮮に、また時に息苦しくひどくパセティックに映ったのに違いない。
 昭和23年の正月に平岡家に和服で年始に訪れたとき、帰り際の応接間で、彼があとから「悪かった」と詫びているある出来事に遭遇している。いや、切り抜けたとでもいうべきだろうか。彼の方は、「一生忘れることの出来ない霧の夜の思い出」「あの時、君はきれいで、きれいで、霧の中の牡丹のように見えた」と書いているが、彼女にはそこまでの余韻はなかったようだ。ここにも、二人の愛の認識の相違が見える。
 そしてもうひとつ、彼女には父佐々弘雄という大きな存在があった。先祖は戦国時代の武将佐々成政、弘雄は美濃部達吉吉野作造の薫陶を受けた俊英の政治学者で、九州大学で教鞭を執っていたが、折からのパージで解職され上京、政治評論家、朝日新聞論説委員参議院議員とあらゆる角度から日本の政治を考え、子供達を前に、食卓で時事解説をする進歩的思想の持主だった。しかし家庭では、妻に遊芸を禁じ家長制度を守る厳格な人であった。この父の姿が、反発をしながらもある時は理想の異性として彼女の前に厳然と立ちはだかるのだった。
 23年の10月に父が51歳で急死、葬儀の日、三島は黒い背広で現れて、その二日後に手紙が届いた。「気晴らしに君の行きたい所、どこへでも行きましょう。しかし、ニューヨークと言われても困ります」とユーモラスに結んであった。
 学費を稼ぐために、彼女は倉庫番をしたり、父の友人に借金をして、道玄坂にヤキトリの屋台を出そうとしたりする。結局は失敗に終わるのだが、このパワーと行動力には圧倒されてしまう。はじめから反対していた三島は、旅先から「失敗おめでとう」の絵葉書を送っている。 
 三島が歌舞伎に傾倒していた頃、彼女は新劇に熱中し、女優を志していた。三島は「君は女優にはなれない。本当のことを表現しすぎるから」「作家にもなれない。本当のことを書きすぎるから」「なれるのは政治家だよ」と言った。自身の将来については「僕は世間の人が驚くようなことをするよ。奇人変人扱いされるかもしれないが、その時の僕を信じていてほしいんだ」と予言めいたことを言っているが、さすがの彼女も、(公威さんたら、またデモーニッシュぶりを発揮して)くらいにしか思わなかったようだ。
 三島は彼女に宛てた手紙の中で、また会話の中で、いくつもの言葉を贈ってくれた。そのひとつに、岡本かの子の「丹花(たんか)を口に銜(ふく)みて巷を行けば、畢竟(ひっきょう)、惧(おそ)れはあらじ」という言葉がある。 これはまた何とゴージャスな言葉だろう。その牡丹の花は、白でもなくピンクでもない、まさしく緋牡丹でなければならぬ、と私は思った。そして、それを口に銜んだ女人の着物は、黒と丁子茶のきりりとした太い縞御召ではないか、惧れを知らぬ彼女の歩く黄昏の街の情景までもが目に浮かぶのだった。
 また、「私たちは人生を夢みる。夢みるからそれを愛するのだ。人生を生きようと思ってはいけない」と言うプルーストの美しい言葉。そして、「自分一人の愛がないと同様、自分一人の悲しみもないことを信じなさい」「苦悩は人を殺さない。人を殺すのは唯『死』のみである」という三島自身の言葉。
 三島と同時代の青春を生き、彼から生きる指針ともなった言葉をもらった彼女は、何と幸福な人なのだろう。彼女にとって三島は、「人生を教えてくれた聡明な先輩」「冷静かつ厳しい教師」であったが、「幼年、少年、青年期の経験が、作家にとっての永遠の母体となるんだよ」と言っていた彼にとっても、彼女の存在はかけえがえのない青年期の豊かにかぐわしい果実だったのではないか。


 彼と会わなくなって数年後、彼女は、「理想選挙」をかかげた市川房枝の初代秘書となり、婦人運動に従事していた。仕事先の長野で三島の短編「雛の宿」を読んだ彼女は、そのヒロインの挿絵に、紛れもない自分の少女時代の面影を見たのだった。「愛している人や好きな人は絶対小説のモデルにしたくない」と言っていた三島だったが、ヒロインのキャラクターは、どうやら妹美津子と彼女、そしてもうひとりの友人の合成らしく思われた。少女の母は彼女の母に、雛の宿は彼女の家によく似ていた。童話めいたこの幻想小説は、数年前の雛祭りの日に、彼と霞に煙るテニスコートで話したこと、また霧の夜の応接間をも思い出させた。この小品は確かに彼女の存在あってこそ生まれ、その数年の記憶を虚構とともに夢幻のなかで織り合わせ、一枚の小さな絵織物に仕立てたような趣がある。
 晩年の三島と彼女とは、もうほとんど音信がなく、立場も世界もまったく正反対とも言えるものだった。彼は変わってしまったが、かつて彼が贈ってくれた数々の言葉は、変わることなく彼女の内奥に生き続けた。
  私が感動したのは、彼女の勇気と行動力、知識欲、正義感、パッション、少女期ならではの潔癖さ、それらすべてとともに、その時代の青年たちの生きること、学ぶことへのひたむきさであった。戦後の貧しかった時代に、その精神のいかに自由で豊饒で生と死に対して真摯であったことか。それは、この手記を思いがけず手にして読んだ私自身も多感だった頃に、常に感じ絶えず索めていた、胸に迫るような憧れにも近い思いだった。


(初出:個人誌「邯鄲夢」1994年創刊号より改題改稿/参考文献:「二人の父が育てし娘 一一女の政治に恋して」佐藤むつみ「法と民主主義」2003年8・9月号)
 付記:この一文について、紀平悌子さん宛に掲載に関する書簡を送ったことがあった。返信はなかったが、一度公表されたものでもあり、引用の範囲で掲載に踏み切った。何よりもこれほど貴重な体験を、一人の胸にしまっておくにはあまりにも惜しいと思ったからである。