カイ・ニールセンと小林かいちの「様式としての嘆き」



 中原中也の恋人だった長谷川泰子の口述をまとめた本を文庫化することになり、その装丁を依頼されたのは、2006年1月のことである。カバーには、小林かいちの版画を使う予定だという。それまで私が見たかいちと言えば、二度の「絵はがき展」の展示作品と古書市で買った数枚の絵封筒だけであった。帝塚山学院大学山田俊幸教授のコレクションの分厚い張り込み帖から何点かを選んだ時、そのおびただしい数と独特の色彩と様式美に圧倒されてしまったのを覚えている。
 絵封筒の色数は、2〜4色、多色という訳ではないのに濃厚な印象を受けるのは、深々とした赤、黒、金、銀、ピンク、薄紫などの取り合わせのためだろう。赤とピンクと薄紫は、まかり間違えば風俗店の看板になってしまいそうなあやうい配色なのである。遠い昔、美大受験のための予備校で、決して使ってはいけないと戒められた記憶に残る色である。そんな潜在意識のためか、大量のかいち作品を見た時に感じた秘め事のようなただならぬ気配は、多分にこの色彩に負うところが大きい。
 好んで使われているモチーフは、ハート、星、薔薇、クローバー、すずらん、蜘蛛の巣、トランプ、蠟燭などで、頻繁に目にとまる赤やピンク色のハートは、時に涙を流していたり、十字架に刺し貫かれていたりする。クローバーもすずらんもハートのヴァリエーションとも言えるし、トランプは赤いハ−トのエースである。それらを巧みに配した背景の前に、繰り返し描かれているのが、過剰なほどの嘆きに身をふるわせて哭く女である。
 ノルウェイの民話にデンマークのカイ・ニールセンが挿絵を描いた『太陽の東 月の西』という絵物語がある。魔女の呪いで白い熊に姿を変えられたトロルの王子の花嫁になった娘が、夫の顔を見たばかりに、金銀に彩られた城は消え去り、ひとり深い森の奥に取り残される。直線の木立に囲まれて半円の丘で哭き濡れるヒロインの図は、傑作といわれるこの絵物語のなかでも、見るものにとりわけ強い印象を残す。
 二ールセンの慟哭する娘と酷似したかいちの絵封筒がある。ポーズ、衣の襞、髪の流れなどがそっくりである。シャンデリア状の蠟燭も、同書の挿絵に見ることができる。ごく初期の作品らしく、サインもなく線もたどたどしく洗練されていない。しかし、”哭く女“に関していえば、ここにひとつの原型があるように思えてならない。
 だが、ニールセンの絵には物語が不可欠なのにくらべ、かいちの絵は様式としての嘆きの姿であり、必ずしも物語を必要としない。目鼻が簡略化されていたり、何もなかったりすることで、顔の個性は消されて、身体や仕草で感情を表現する舞台女優としての役割だけを与えられているようである。
 ニールセンの絵が華やかな大舞台の群像劇であるとするなら、かいちのそれは、簡素な舞台背景のひとり芝居のように見えてくる。ヒロインを含めたモチーフのすべてが、絵葉書や封筒といった小さな四角い舞台の上で、現実にはありえない美しい絵を構成するための舞台装置なのではないか。それを知っている観客には、女優たちがどんなに上手に嘆き悲しんでいても、胸を刺すような悲愴感は、それほど痛切には伝わって来ないのである。
 やがてかいちの独自の画風が花開く。京都新京極さくら井屋の封筒や絵はがきの絵を描いていたのは、大正の終わりから昭和のはじめの約10年間位と推測されている。
 その後も含め、かいちは長らく謎の作家だったが、遺族が判明した直後2008年の3月初旬、「季刊銀花」第154号の取材で、かいちの次男の小林嘉寿さんのお宅に伺った。 
 子どもたちの記憶にあるのは、スーツ姿で帽子をかぶり、専属図案家として、昭和29年から7年間勤務していた鷲見染工に自転車で出勤する、長身でお洒落な父の姿である。優しく物静かで口数も少なく、叱られることも滅多になかった。それゆえ、過去の出来事や仕事のことを、あれこれと語ることもほとんどなかったのだろう。かいちの血を引いてか、嘉寿さんも絵を描き、近くの喫茶店に飾られていた自作がきっかけとなり、父が謎の画家小林かいちだったことが判明した。かいちの絵はがきや絵封筒は、すべて兄弟が生まれる以前のもの。着物の図案家としての父しか思い当たらなかったのだから、最初は半信半疑だったのだろう。
 若き日の前衛的な紙の仕事と、後年の古典的な布の仕事。そのどちらもが、描かずにはいられなかった人間かいちの生の証である。
 天保年間から長い歴史を刻んださくら井屋は、平刷り木版職人が少なくなり、残念ながら2011年に閉店したという。
 いつかは作りたいと思っていたかいちの小さな手製の画集。それがこの取材を機に図らずも完成した。絵封筒からかいちの好きなモチーフのハートや薔薇やトランプ、街灯などを選んだ折本で、スエード風の朱の紙クロス製の帙入りである。その留具は、かいちの絵にもしばしば見られるハートのエースをあしらったものである。