荒巻義雄『時の葦舟』と在りて無き世、または入れ子の夢

 天井も壁も床も鏡で作られた万華鏡のような部屋に入ったとき、果てしなく続く鏡像はすべてが虚像なのだろうか。もしや自分自身がすでに虚像であり、この世界そのものが、だれかの夢のあるのではないか、と思わせる物語が、荒巻義雄の『時の葦舟』である。
 物語は「白い環」「性炎樹の花咲くとき」「石機械」「時の葦舟」からなる幻想SF短篇連作集である。それぞれの登場人物は時空を超えて生まれ変わり、別の人物として蘇る。
「白い環(かん)」は真っ白な塩でできたソルティと呼ばれる集落の物語。この街は垂直に繁栄した崖の街で、対岸の鏡面に街のすべての様子が鏡像になって映っている。ゴルドハは、河の水を汲んでは水売りをしているが、身体がきついだけで、喜びも大きな利益も得ることができない。ある日、天辺の台地に行ったゴルドハは、仕留めた大トカゲを街で売り、その成功を機に水汲みから狩人となり、次第に街で名を馳せるようになる。ゴルドハが鏡面を見ながら憧れていた女性、高貴で美しいクリストファネスから文書が届く。字の読めないゴルドハは、日頃運命をみてもらっている占い師のセビアにそれを見せると、果たしてそれは面会の申し込みであった。
 クリストファネスは、ゴルドハに白い環に行って、そこに碇泊している蓮華船のなかにいる者に書状を渡してほしいと頼む。短剣を持って崖伝いの道を下り、ゴルドハは白い浜に出た。巨大な船の上は、それ自体ひとつの街だった。そこにひときわ大きく聳える王宮の最後の部屋は、上も下も右も左もない「鏡の部屋」であった。そして突然現れた男は、ゴルドハ自身であったのだ。ゴルドハが彼に書状を渡すと相手も渡し、字の読めないはずのゴルドハは、自分に宛てた文面を理解することが出来た。
  「ゴルドハよ、
  〝鏡〟の呪縛より逃れなさい 
   お前の手でお前を殺すのです」
 鏡像の二人は相手の脇腹を刺し、その時、鏡の崖は滑るように剥落し、ソルティの垂直の街はなだれをうってことごとく消失した。
 「性炎樹の花咲くとき」は、黄緑色の浅海に浮かぶ蓮華状の街エロータスが舞台で、主要な生まれ変わりは登場しないが、「石機械」の主人公で石工技師のKが恋心を抱くアフロデは、「性炎樹」の脇役であるエローズの雰囲気をまとっている。Kは、アルセロナという岩石地帯の街に住み、石鐘楼の巨大な砂時計が、永遠とも思える細かな砂を落とし続けているのを、まるで時をすり減らしているように思うのだった。Kが子どもの頃から、絶えることなく落ち続けて時を刻み、死んだ時間がほんの少しずつ堆積してゆく…。
 石鐘楼の内部の基壇はドーム状になっていて、石(アル)と呼ばれ、太くて大きな石柱にも、天蓋にも、壁体にも涙がこぼれているような模様が彫り残されている。その頃、砂時計が流れの速度を変えたのを、まだ誰も気づいていない。
 アフロデが近衞士官に嫁ぎ、虚脱感に放心して石鐘楼の中にいるKに来訪者がある。アルセロナの女皇であり、クリストファネスが変身したセミラミスである。左利きのKは、もちろんゴルドハの生まれ変わりであろう。彼女に促されて壁の模様の中の文字を読む。
  そのとき
  石は浮揚しつつ火射を放つ
  夢魔  
  去る ふたたび
 壁は兵士によって塗りこめられ、Kは拘束された。何日か王宮の闇の中の独房に閉じ込められたあと、食事を運んできていた女が彼を自由にし、複雑な闇の迷路を案内して、水によって昇っていく昇降機の前にたどり着いた。のぼりつめると突然視野が開けた。そこは凹状にえぐりとられた巨巌の頂上で、階段と幾層ものテラスの内側に、贅を凝らした空中庭園が造られていたのである。アーチの一角のバルコニーに、女皇セミラミスの姿があった。
 彼女は石を使った空中機の開発を夢見ており、古形文字を解読したKに飛行機械の研究を託したのである。Kは階下に書庫を持つ房を与えられ、研究に没頭した。
 ある日、セミラミスはKを搭上に導き、標石の指す方向をむいて語り始めた。
 「その昔、そこに大いなる大地があった。そこに鏡の崖と向きあう一つの街があり、人々は平和に暮らしていた。が、あるとき大地がとどろき、大地がさけ、大洋がおしよせてきて、その大陸とともに街は海の底に沈んだ。そのとき、渦巻く津波の狂乱の中から、大いなる岩(アル)が、天にとびあがった。岩は名残りをおしむように、海にへむけ飛翔し、やがて蒼穹の彼方に消えていった…。」
 自分たちは、呪われて滅びた聖なる街の子孫だとセミラミスは言うのである。その大いなる岩とはどんな力によって空を飛んだのだろうか。
 空中庭園の仕事場で、古び欠けた石版解読を試みているKのところに、東方の商人から買ったという衣装を纏ったセミラミスがやってきて、商人から聞いた異国の合金の飛行物体の話をする。Kは、石版に切れ切れに記された記録の断片を語る。
 「始源は混沌(プラズマ)にあった。あるとき、宇宙はふたつに分離した。やがて宇宙はふたたび始源に回帰するであろう。そのとき一切の形あるものは滅びる。ただ、霊的なる存在のみが、生き残る」
「大いなる時の流れがその命脈を尽たときをもって、おわりをつげる。形あるものが仮の姿であるのと同様、形あるものを形あるものとして現出させている時もまた、仮のものなのである。」
 やがてKは空飛ぶ石機械を開発し、衆人の眼のまえで、その飛行物体に乗り込む。砂時計の砂が残り幾ばくもないことを、いまやKもセミラミスも知り抜いている。
 …砂時計の持ちこたえた有限の命脈は、最後の一粒の砂の落下とともに尽て、仮現の夢は終わった。岩陰でひっそりと嘆き匂うていたアルセロナの街は、消え失せていた。…
 「時の葦舟」は、天まで届く大木である世界樹カニシュタの聳える村が舞台である。羊飼いのボーディが、長者の娘アジタの家の庭園を巡る回廊に描かれた、不思議な四枚の壁画を見る。一枚目は白い崖の街、二枚目は巨樹の下での狂宴、そこから逃げ出す少年少女が描かれている。三枚目は奇妙な砂時計のある石の世界。灰色の空に、まさに墜落しようとしている乗物とその乗員が描かれていた。最後の一枚は、大樹におおわれた彼らの現在住む村落の風景だった。
 村の浴場で、ボーディは知恵者アルハットにこのことを話す。彼は、壁画は誰かが描いたのではなく、あたかも裏側から描かれたようこちら側に映しだされたものだという。
 アルハットが戻った小屋で呪文をとなえると、小屋の裏側にゆらめく光の通路が出来、アルハットの無数の映像が映っている。この多次元の迷路を乗り越えながら、アルハットは紫の小部屋からあらわれたクリストファネスと、ゴルドハやアフロデやエローズの行く末について語った。そして夢を見たボーディは、彼らの話をその夢のなかで聴き、アジタはしきりに画の中に入ろうと誘うのだった。
 ボーディは大いなる時の流れの中で、日々の出来事がうたかたに過ぎぬことを悟る。アジタの部屋に案内されたボーディ。部屋は真昼のように明るく上部がアーチ状になった大きな窓があった。その窓の向こうにあるのは、青い海である。窓は「記憶の窓」と呼ばれている。部屋には、円く模様の浮き出ていて回転する「世界儀」があった。いくつもの天井の高い部屋部屋が連なり、いつしか前と同じ部屋にきていることに気づく。ふとみると、世界儀を見ている自分とアジタがいる。こちらが夢かあちらが夢か、もうボーディにはわからなくなっている。
 「この世はだれかの夢にちがいない。そうしなければこの世界の色々な不思議な事柄が説明できぬ」とアルハットは言う。ではいったいその者とはだれなのだろうか。
 長者の回廊の壁には、第五の壁画があらわれていた。

(この本の初版は1975年、わが古巣から出版された。ただしその時はまだ入社していない。所持している本は1979年の講談社文庫で、こちらの装画は横尾忠則。神秘なクリストファネスのイメージにより近いように思う。)