日本女子大「詩と童話まつり」と諏訪優さんのこと



目白の東京カテドラル聖マリア大聖堂の近くの日本女子大学のキャンパスで、「詩と童話まつり」が開かれていた時期がある。日本女子大学に児童文学究室があった頃で、「目白児童文学」の姉妹誌として、同人誌「海賊」が発行されていた。アドバイザーに山室静、特別同人に立原えりか、森のぶ子、宮地延江、同人に安房直子、森敦子、生沢あゆむなどが名を連ね、児童文学の関係者たちが、年に一度集まって講演と懇親会を開催していた。同人誌の表紙絵は、立原えりかの夫君だった渡辺藤一。印刷は凸版、本文はまだタイプ印刷という時代だった。
 友人が日本女子大に通学していたので、何度かその講演会に誘われたことがある。埴谷雄高三木卓久保田正文の講演、安房直子の音楽にのせた童話の朗読、吉原幸子石垣りんの詩の朗読があり、聴衆は女子学生が多かった。私は立原えりかさんと手紙のやり取りがあったので、終演後に挨拶に行くと、 『あなたも二次会にいらっしゃらない?』とお誘いがあり、いつも携えているスケッチブックとともに、のこのこと近くの居酒屋の二階の大広間まで着いていった。
 まったく予期しなかったことだが、私の座った座布団は、右に伊藤信吉、左に諏訪優という、素晴らしく豪華な場所であった。酔った伊藤信吉さんは、私が信濃追分で描いたゆうすげや萱草や桔梗のスケッチをご覧になると、やおら筆記具を取り出し、裏表紙に大きな文字で「あかまままの/花につらなる/宿四つ。」と俳句を書き付けられた。「信吉」とサインまで入っているので、特に揮毫を頼んだわけではなかったが、あとから考えれば幾重にもありがたいことである。おそらく追分の話になって、軽井沢、沓掛、借宿、追分と四つの宿があるという話になったのだろう。
 諏訪優さんとは何の話をしたかあまりよく覚えていないが、エミリィ・ディキンソンの詩「もしも愛が……」の翻訳者ということは知っていた。


  一時間まつのも長いこと
  もしも愛がすぐそこにあるとしたならば
  永遠にまつのもみじかいこと 
  もしも愛が最後にむくいられるとしたならば
  
 その後、『旅にあれば』という詩集を送ってくださった時、詩集とは、こんな風に縦長の洒落た作りにするものなのだと、学生ながらその判型に新鮮な驚きを感じたのだった。ジャズの会のチラシを頼まれたり、詩の朗読会に連れて行っていただいたりしたが、ほどなく私も社会に出て、いつのまにか疎遠になっていた。諏訪さんが晩年、M子さんという女性と生活していたことはずっとあとになって知った。自分にとっては、少女雑誌や訳詩集で読んだディキンソンやケネス・パッチェンの「天使のようにできないかしら」の訳者としてのイメージだけが長く大きく消え残っていた。『旅にあれば』のなかの、「日本列島は雨季に入る/クチナシの花は肉体のように匂い/肉体のように崩れ」という雨期の湿やかなフレーズとともに。
(写真の本は、エミリィ・ディキンソン詩/諏訪優訳の『もしも愛が……』が収録された 愛の詩のアンソロジー。蜥蜴の革の継表紙に、ハートの上に乗った天使と矢のモチーフが付いている。90×60mm )