個人誌「邯鄲夢」と久世光彦さんのこと 



 箱のなかに箱があり、それを開けるとまた箱がある。開けても開けても箱があり、少々不安になった頃、ようやく小さな本が顔を出す。このマトリョーシカのような重ね箱のイメージは、絵のなかの絵、そのなかの絵、と限りなく小さくなってゆきながら果てしなく同一という無限の繰り返しにどこか似ている。それは、この世ならぬ異界にいざなってくれる通い路のようだ。
 私が本職の装丁の仕事のほかにライフワークとして作り続けている小さな本は、いかなる制約もなく自由なのだが、まず第一に小ささを競うことなく、本文のレイアウトが整っていて、文学書のように文字がきちんと読めるものであること。そしてそこに、箱を開けるときのようなときめきとサプライズ、無限の絵を見るような不思議さと遊び心を感じさせ、さらに内容が面白いものであることに心を砕く。間違っても玩具になってはいけない。
 表紙に高価な皮革を使って、麻糸で丁寧に綴じられたルリュール本は、端正で飽きのこないものではあるけれど、優等生のようで、どうしても面白みには欠けるのだ。重さのない小さな本をルリュール本のようにしっかりと綴じる必要はない。むしろ、どこを省略するかをいつも考えている。単語帳のように、カシメひとつで綴じてあっても本は本なのである。既存のテキストを綴じて衣装を着せるのではなく、自作であれ好きな詩集であれ、本文部分もすべてオリジナルで、レイアウトをしてから表紙を考える。したがって、本文が出来た時点で、本はもう八割方仕上がっているといってもいい。
 私の作る本は、本でありながらグリーティングカードのような、ある時はステーショナリーのような、あるいはギフトボックスのような様々な顔を持っている。どんな形式を選ぶかは、まずその内容によって考える。森の物語なら紅葉した葉や葉脈をそのまま使い、王朝の和歌集なら、本そのものをスライドする扇の形にしてしまう。同じ場所の真昼と日暮れの物語は、右と左に開く二冊の本が、一枚の裏表紙でつながっている。キャラメル箱型のケースに入った高原の写真集、額縁の中の写真にタイトルが箔押された秋のコント、コーネル装スパイラル(らせん)綴じのスケッチブック、幾重もの薔薇の花冠を開くかのように、めくり続けてようやく一枚の絵に出会う本もある。
 長いこと刊行を夢見て、ようやく一九九四年に創刊した、長形三号の封筒にぴったり入る小冊子「邯鄲夢](かんたんむ)は、作り続けて来た本の延長線上にあるのだが、複数制作のため、一冊本とはまた別の楽しみを味わうことになった。今は神保町で営業している古書店「かんたんむ」は、かつて高円寺にあり、窓際に「ユリイカ」のバックナンバーがため息のように積んであった。
 周知のことと思うが、むかし邯鄲の地で盧生という人が、栄華が思いのままになる夢を見る。しかし目覚めてみると、それは豆さえ煮えていないほどの短い時間だったというのである。人の世の儚さの例えとして使われるが、まことにこの儚さのゆえに、人は生きられたり、ものを作ったりするのではないだろうか。
  表紙の形式は、観音開きの四ツ折で、二ツ折り十六頁の本文を、三ミリ幅のリボンで、表紙のいちばん左の谷折の部分にメニュー綴じでセットする。表紙とリボンの色が毎回変わって行く趣向で、本文レイアウトも、毎回違う試みを考えていた。左開き横組で、原則見開き完結。巻頭特集などは長くとも二見開き。縦横の文字組みの混じったコラムランドのようなものである。内容は、アナグラム、回文、当て字、エンドレスポエム、星形やハート型に文字を組んだレイアウト、異国の旧い絵葉書のモノローグ、誰も知らない埋もれた本、亜流本のワンランク下の面白さ、絵画や映画の背景にある小道具のこと、切り取って使える巻末の詩入り絵葉書。相互の脈絡はないのに、それなりに納まってしまうのが妙である。この頃はワープロ版下で、タイトルのみ写植を使っている。
 執筆者は、周辺の友人や編集者、大学教授などで、原稿料は現物支給。筋は付けてあるので自分で折ってもらい、リボンの掛け方も伝授した。
 現代はあらゆるものが溢れているのに、 触れ合う心や遊び心がいかにも少ない。それなら自分で作ってしまおうというのが発端なのだから、風の話を集めたような、遊びの小箱に徹しようと思った。
 演出家の久世光彦さんは、この個人誌をとても気に入ってくださって、「尋ねうたの時間」の漢詩が、『和漢朗詠集』に収録されていることを教えていただいた。『蝶とヒットラー』で、Bunkamura主催の「ドゥ・マゴ賞」を受賞され、その授賞式に呼んでいただいた時に、はじめてお目にかかった。書き急ぐように次々と本を出されて、読むのが追いつかないくらいだったが、正直なところ、初期の『昭和幻燈館』と『怖い絵』に、久世さんのお好きなものはもうすべて盛り込まれているように思った。「邯鄲夢」を「定期購読します」とおっしゃったのに、時はあまりにも早く流れて、忙しさにかまけて一九九五年の第二号までしか出せないままに、久世さんは突然遠くに行ってしまわれた。
 (初出:『彷書月刊』一九九四年九月号)