信濃追分と福永武彦夫妻のこと




 紫のぼかしに短冊を散らし、物憂い横顔の婦人を配した七夕の絵葉書。裏をかえすと、旧字旧仮名の見馴れぬ文字が綴られている。差出人の名前を見て私は驚いた。それが福永武彦先生にはじめて戴いた夢二の絵葉書だった。そのとき、先生の余命があと四年などということを、誰が予測しえただろうか。
「この間はお手紙ありがたう 豆本二冊たのしく拝見しました(中略)今どき 本づくりの好きな人なんてのは珍しいから大いにおやりなさい(中略)これから追分の方に出かけますから 夏の間にこちらに来たらお寄りなさい 原則的には面会謝絶ですから 電話を先にかけるか ちゃんと自己紹介をして下さい」
そして末尾に追分の電話番号が書かれてあった。


  夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
  水引草に風が立ち
  草ひばりのうたひやまない
  しづまりかへつた午さがりの林道を   (のちのおもひに) 


 立原道造の詩にうたわれた信濃追分は、私にとっての夢の芯であり、その村を訪れたことで、その後の人生をも変えてしまった格別な魔法の場処であった。はじめて手製の小さな本を作ったのは中学生の時、高校で立原の詩集に出会い、周辺を読み進むうちに、彼が「散歩詩集」という多色の色鉛筆で詩を書き付けた手製本を作っていたことを知った。架空の版元「人魚書房」を考え、『萱草に寄す』という楽譜型のソネット(十四行詩)集も刊行していた。学生時代からたびたび信濃追分に逗留し、その地の風物をうたい、避暑に来ていた少女に想いを寄せて、きよらかな調べの数々の詩を残した。彼の詩が生まれるためになくてはならない信濃追分という土地の名は、私の心に夢間の風のように吹いてきた。
 ようやく大学二年の夏休みに、追分行きを決行した。上野から急行で三時間という時代だった。追分旧道の脇本陣である油屋旅館に立ち寄り、裏手の泉洞寺の墓地を歩いたが、見たかった黄色いゆうすげの花はどこにも咲いていなかった。それは、夏の半ばまで咲く花だったのに、訪れたのは晩夏だったのである。
 墓地の、堀辰雄が愛した石仏の前でぼんやりしていると、こちらへ向かってくる人影がある。四季派の詩人たちが好きで、頻繁に追分を訪れているという。その人に村の名所旧跡を案内してもらい、最後に、油屋裏手の山荘を指差して、あれが福永武彦の別荘だ、と教えてくれたのだった。その作家の小説は、高校生の時に『夢見る少年の昼と夜』を最初に読んで、異国の当て字や物語のなかの恋人たちを集めたノートを作っている少年が自分そっくりだったので、たちまちファンになり、『草の花』や『風のかたみ』に心酔していた頃だった。
 同年の冬、私はカメラとともに駆り立てられるように追分に向かった。始発電車が追分に到着したとたん、歓声があがるほどに美しい樹氷がホームの向こう側に連なっていた。駅から旧道へと歩きながら、ひっきりなしにシャッターを押し、やがて福永邸の前を流れる小川まで辿り着いたとき、川のほとりの枯れ草が凍りついて、星の花のようなうつくしさだった。その花と山荘をカメラに収め、帰京してから、それらの写真のベタ焼きを使って『しなのおいわけ』という四角い小さな本を作った。まだタイトルを入れる手段として、ひらがなのインスタントレタリングしか選択肢がなかったのである。六つ切に伸ばしたものにはケースを作り、撮影した駅のネームプレートを貼って写真の授業の課題に提出した。
 この小さな本は焼き増しをすれば複数作れるので、もう一冊を作って山荘の持ち主に敬意を表して送付した。それをすっかり忘れていた半年後に、突然届いた返信だった。もとより何の期待もしていなかったのだが、せっかく電話番号まで書いて下さっているのだから、訪問してみようと思った。
 電話をかけると奥様が出られて「あなた、豆本の女の子よ」と伝える声が聞こえ、先生が替わられて日時を約束した。初めてお目にかかった先生は、ゆうすげ色の黄色いポロシャツを着ていらした。前日、北軽井沢の照月湖のほとりで描いてきたクサフジやホタルブクロのスケッチを熱心にご覧になり、「いいな、僕も描こうかな」とおっしゃった。その日は、『廃市』のサイン本を頂戴し、教えていただいた「ゆうすげのいっぱい咲いている」第二林道で、日暮れるまで花の絵を描き続けていたのを思い出す。
 初秋に届いた絵葉書に「僕は夏の間毎日草花の寫生をして愉しみました 黒いペンの下書に日本絵具で色をつけたものです 来年はもつとせつせと描くつもりです」と書かれている。のちに中央公論社から出版された『玩草亭百花譜』の最初のスケッチの野あざみの日付が八月六日、お目にかかった数日後なので、ほぼ間違いなく、その日のことが契機になったのだと思う。
 学習院大学では恐いと評判の先生になぜか気に入られて、カットを描くアルバイトまで紹介していただき、成城のお宅にまでお訪ねすることを許された。
 やがて、四年生の夏に追分に伺うと、「もし就職するつもりなら、どこか紹介してあげよう」と、S社やT社、つまり執筆なさっている出版社の名前をあげられたのだが、私には有名出版社志向が皆無だった。「六人くらいの小さいデザイン事務所に行きたい」と思っていたので、お願いしますとは言えなかった。
 すると、秋になってから突然自宅に電話があり、「早くしないと間に合わないよ。そうだ、君は去年追分で『ミセス』の編集長に会っている。あの人に紹介状を書いてあげるから取りに来なさい」と言われて、急いで成城に赴いた。封はしていないから見てもいいよ、ということだったので、帰りの成城の並木道で開けてみると、当然ながら褒めてあるので、使い物にならなかったらどうしよう、と困惑した。
 一度しか会っていない「ミセス」編集長に封筒を届けにいくと、「私は四十度の熱があった時も仕事しました」と言われ、「あなたは、もし面接まで行ったら、自分で作った本を持ってらっしゃい」と助言されたが、一次の学科が通らなければ紹介は効かないようなので、どのみち無理だろうと思っていた。
 その頃、新聞で見つけた「ぴぽ社」という紙工作の製品を作っている六人くらいの会社に面接に行った。すぐに気に入られて「明日からでも来てほしい」と言われたが、まだ他社の一次試験の結果待ちだったので、即答出来なかった。結局一次試験も面接もパスして、入社はできなかったのだが、ぴぽ社はまだあるのかな、と今でも時おり懐かしく思い出す。ぴぽ社やS社やT社に入社していたら、私の人生も大きく変わっていたかもしれない。それでも私は、「君にはあそこが向いてるよ」と福永先生がご自分で選んで推薦して下さった会社が大好きだった。「君は何も相談しない」と言われていたので、辞める時には相談に伺ったが、その一年後に急逝されたので、なぜあと一年待てなかったのかと、いついつまでも悔いは残った。
 奥様の貞子さんとは、先生亡き後も、成城のお宅や追分の山荘をお訪ねした。世田谷の教会で開催した一周忌の記念会では、宝塚の「風のかたみ」のパネル作りなどもお手伝いした。信濃毎日に載るという清瀬の療養所で知り合った頃のお二人の思い出を書いた草稿も見せていただいた。掲載には至らなかったようだが、雪の降る日に、先生の病室のガラス戸をトントンと叩くと開けてくれた、というくだりは、映画「また逢う日まで」のシーンを連想させた。
 一九八九年の私の最初の個展「装丁と豆本展」には、大きなアレンジメントを贈って下さった。初日のオープニングには、乾杯の音頭をとって下さった恩師庄司浅水先生、作家の清川妙先生、田中澄江先生のお嫁さんで画家の三田恭子さんなどがお見えになったので、皆様にお引き合せした記憶がある。
 著作権を守った奥様がどうやら生活に困窮していらっしゃるのではないか、と思いはじめたのは、成城の家と蔵書を売却し、厳冬期も含めて四季を追分で過ごされるようになってからである。ある夏、一緒にタクシーで旧軽井沢に行った時のこと。浅野屋でパンを買い、郵便局の横の露地を入ると、小さなブティックがあって、とりどりに美しい秋のニットが飾られていた。奥様はなかでもとびきり華やかな、さまざまな色の花モチーフを配したセーターを胸に当てて微笑み、そのセーターを包んでもらった。
 以来もうお会いすることがなかったが、二〇〇六年、軽井沢高原文庫の副館長さんがポーラミュージアムアネックスでの展覧会のために上京されたとき、奥様が三年前に群馬のホームで亡くなったことを告げられたのだった。もしかしたら、あれが最後の贅沢な買物だったのではないか。何かうらがなしく最後にお会いした日の旧軽の情景が思い出された。

(写真は、授業で提出した追分の写真集を、ベタ焼きを使って小さな本に仕立て直したもの。天地58×左右62ミリ)