荒巻義雄『時の葦舟』と在りて無き世、または入れ子の夢

 天井も壁も床も鏡で作られた万華鏡のような部屋に入ったとき、果てしなく続く鏡像はすべてが虚像なのだろうか。もしや自分自身がすでに虚像であり、この世界そのものが、だれかの夢のあるのではないか、と思わせる物語が、荒巻義雄の『時の葦舟』である。
 物語は「白い環」「性炎樹の花咲くとき」「石機械」「時の葦舟」からなる幻想SF短篇連作集である。それぞれの登場人物は時空を超えて生まれ変わり、別の人物として蘇る。
「白い環(かん)」は真っ白な塩でできたソルティと呼ばれる集落の物語。この街は垂直に繁栄した崖の街で、対岸の鏡面に街のすべての様子が鏡像になって映っている。ゴルドハは、河の水を汲んでは水売りをしているが、身体がきついだけで、喜びも大きな利益も得ることができない。ある日、天辺の台地に行ったゴルドハは、仕留めた大トカゲを街で売り、その成功を機に水汲みから狩人となり、次第に街で名を馳せるようになる。ゴルドハが鏡面を見ながら憧れていた女性、高貴で美しいクリストファネスから文書が届く。字の読めないゴルドハは、日頃運命をみてもらっている占い師のセビアにそれを見せると、果たしてそれは面会の申し込みであった。
 クリストファネスは、ゴルドハに白い環に行って、そこに碇泊している蓮華船のなかにいる者に書状を渡してほしいと頼む。短剣を持って崖伝いの道を下り、ゴルドハは白い浜に出た。巨大な船の上は、それ自体ひとつの街だった。そこにひときわ大きく聳える王宮の最後の部屋は、上も下も右も左もない「鏡の部屋」であった。そして突然現れた男は、ゴルドハ自身であったのだ。ゴルドハが彼に書状を渡すと相手も渡し、字の読めないはずのゴルドハは、自分に宛てた文面を理解することが出来た。
  「ゴルドハよ、
  〝鏡〟の呪縛より逃れなさい 
   お前の手でお前を殺すのです」
 鏡像の二人は相手の脇腹を刺し、その時、鏡の崖は滑るように剥落し、ソルティの垂直の街はなだれをうってことごとく消失した。
 「性炎樹の花咲くとき」は、黄緑色の浅海に浮かぶ蓮華状の街エロータスが舞台で、主要な生まれ変わりは登場しないが、「石機械」の主人公で石工技師のKが恋心を抱くアフロデは、「性炎樹」の脇役であるエローズの雰囲気をまとっている。Kは、アルセロナという岩石地帯の街に住み、石鐘楼の巨大な砂時計が、永遠とも思える細かな砂を落とし続けているのを、まるで時をすり減らしているように思うのだった。Kが子どもの頃から、絶えることなく落ち続けて時を刻み、死んだ時間がほんの少しずつ堆積してゆく…。
 石鐘楼の内部の基壇はドーム状になっていて、石(アル)と呼ばれ、太くて大きな石柱にも、天蓋にも、壁体にも涙がこぼれているような模様が彫り残されている。その頃、砂時計が流れの速度を変えたのを、まだ誰も気づいていない。
 アフロデが近衞士官に嫁ぎ、虚脱感に放心して石鐘楼の中にいるKに来訪者がある。アルセロナの女皇であり、クリストファネスが変身したセミラミスである。左利きのKは、もちろんゴルドハの生まれ変わりであろう。彼女に促されて壁の模様の中の文字を読む。
  そのとき
  石は浮揚しつつ火射を放つ
  夢魔  
  去る ふたたび
 壁は兵士によって塗りこめられ、Kは拘束された。何日か王宮の闇の中の独房に閉じ込められたあと、食事を運んできていた女が彼を自由にし、複雑な闇の迷路を案内して、水によって昇っていく昇降機の前にたどり着いた。のぼりつめると突然視野が開けた。そこは凹状にえぐりとられた巨巌の頂上で、階段と幾層ものテラスの内側に、贅を凝らした空中庭園が造られていたのである。アーチの一角のバルコニーに、女皇セミラミスの姿があった。
 彼女は石を使った空中機の開発を夢見ており、古形文字を解読したKに飛行機械の研究を託したのである。Kは階下に書庫を持つ房を与えられ、研究に没頭した。
 ある日、セミラミスはKを搭上に導き、標石の指す方向をむいて語り始めた。
 「その昔、そこに大いなる大地があった。そこに鏡の崖と向きあう一つの街があり、人々は平和に暮らしていた。が、あるとき大地がとどろき、大地がさけ、大洋がおしよせてきて、その大陸とともに街は海の底に沈んだ。そのとき、渦巻く津波の狂乱の中から、大いなる岩(アル)が、天にとびあがった。岩は名残りをおしむように、海にへむけ飛翔し、やがて蒼穹の彼方に消えていった…。」
 自分たちは、呪われて滅びた聖なる街の子孫だとセミラミスは言うのである。その大いなる岩とはどんな力によって空を飛んだのだろうか。
 空中庭園の仕事場で、古び欠けた石版解読を試みているKのところに、東方の商人から買ったという衣装を纏ったセミラミスがやってきて、商人から聞いた異国の合金の飛行物体の話をする。Kは、石版に切れ切れに記された記録の断片を語る。
 「始源は混沌(プラズマ)にあった。あるとき、宇宙はふたつに分離した。やがて宇宙はふたたび始源に回帰するであろう。そのとき一切の形あるものは滅びる。ただ、霊的なる存在のみが、生き残る」
「大いなる時の流れがその命脈を尽たときをもって、おわりをつげる。形あるものが仮の姿であるのと同様、形あるものを形あるものとして現出させている時もまた、仮のものなのである。」
 やがてKは空飛ぶ石機械を開発し、衆人の眼のまえで、その飛行物体に乗り込む。砂時計の砂が残り幾ばくもないことを、いまやKもセミラミスも知り抜いている。
 …砂時計の持ちこたえた有限の命脈は、最後の一粒の砂の落下とともに尽て、仮現の夢は終わった。岩陰でひっそりと嘆き匂うていたアルセロナの街は、消え失せていた。…
 「時の葦舟」は、天まで届く大木である世界樹カニシュタの聳える村が舞台である。羊飼いのボーディが、長者の娘アジタの家の庭園を巡る回廊に描かれた、不思議な四枚の壁画を見る。一枚目は白い崖の街、二枚目は巨樹の下での狂宴、そこから逃げ出す少年少女が描かれている。三枚目は奇妙な砂時計のある石の世界。灰色の空に、まさに墜落しようとしている乗物とその乗員が描かれていた。最後の一枚は、大樹におおわれた彼らの現在住む村落の風景だった。
 村の浴場で、ボーディは知恵者アルハットにこのことを話す。彼は、壁画は誰かが描いたのではなく、あたかも裏側から描かれたようこちら側に映しだされたものだという。
 アルハットが戻った小屋で呪文をとなえると、小屋の裏側にゆらめく光の通路が出来、アルハットの無数の映像が映っている。この多次元の迷路を乗り越えながら、アルハットは紫の小部屋からあらわれたクリストファネスと、ゴルドハやアフロデやエローズの行く末について語った。そして夢を見たボーディは、彼らの話をその夢のなかで聴き、アジタはしきりに画の中に入ろうと誘うのだった。
 ボーディは大いなる時の流れの中で、日々の出来事がうたかたに過ぎぬことを悟る。アジタの部屋に案内されたボーディ。部屋は真昼のように明るく上部がアーチ状になった大きな窓があった。その窓の向こうにあるのは、青い海である。窓は「記憶の窓」と呼ばれている。部屋には、円く模様の浮き出ていて回転する「世界儀」があった。いくつもの天井の高い部屋部屋が連なり、いつしか前と同じ部屋にきていることに気づく。ふとみると、世界儀を見ている自分とアジタがいる。こちらが夢かあちらが夢か、もうボーディにはわからなくなっている。
 「この世はだれかの夢にちがいない。そうしなければこの世界の色々な不思議な事柄が説明できぬ」とアルハットは言う。ではいったいその者とはだれなのだろうか。
 長者の回廊の壁には、第五の壁画があらわれていた。

(この本の初版は1975年、わが古巣から出版された。ただしその時はまだ入社していない。所持している本は1979年の講談社文庫で、こちらの装画は横尾忠則。神秘なクリストファネスのイメージにより近いように思う。)

「舞踏会の手帖」と扇ことば

 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督のフランス映画「舞踏会の手帖」(1937年)に、主人公クリスティーヌ(マリー・ベル)が36歳の若さで未亡人となり、湖畔の古城の暖炉の前で、夫の遺品を整理していたとき、するりと鉛筆の付いた小さな手帖が床に落ちる場面がある。16歳の時のはじめての舞踏会で、ワルツを申し込んだ十人の若者たちの名前が書かれた「舞踏会の手帖」だった。頁をめくるうちに、ふとクリスティーヌはその男たちを訪ねる旅に出ようと思いつく。
 かつての若者たちは、クリスティーヌの婚約を聞いて自死したジョルジョ、ヴェルレーヌの詩を諳誦した文学青年ピエールは、キャバレーのオーナー兼泥棒に身を持ち崩していた。今は神父になっているピアニストだったアラン、詩人気取りだったエリックはアルプスのガイドになっている。政治家志望だったフランソワは、田舎町の町長となり、女中を後妻に迎える結婚式の真最中だった。精神障害の発作に悩む医者のティエリー、美容師となったファビヤン。クリスティーヌは彼と一緒にはじめての場所と同じ舞踏会に出かけ、二十年前の自分を彷彿とさせる少女に出会って郷愁を覚える。モスリンのカーテン、シャンデリアの輝き、燭台、蝶のように舞う大きな花飾りの付いた純白のドレス、扇の影で囁いた唇、すベては同じはずなのに、小さく安っぽい会場の装飾や雰囲気に、クリスティーヌは自分の記憶のなかの夢のような思い出とのあまりの落差にがっかりするのだった。
 旅を終えたクリスティーヌに、むかし恋して消息のわからなかったジェラールが、湖の対岸に住んでいると執事が報告する。そこを訪ねると、ジェラールは一週間前に亡くなったと、忘れ形見の息子ジャックが告げる。クリスティーヌは彼を養子に迎えようと決意する。やがてジャックの最初の舞踏会の日に、「少し緊張するでしょう。はじめての煙草の時くらいに」と彼女は微笑んで送り出すのだった。
 「舞踏会の手帖」には、ダンスを申し込む名前を書くための筆記具が付いている。アンティーク市で見かけるものの中には、アールヌーヴォー装飾の銀や真鍮製の表紙に、切取り線の付いた本文紙、鉛筆やペンを差すことで蝶番のように本文を留める構造になっているものが多い。購めたものの一冊は、アールヌーヴォー風の女性の横顔の浮き出しに、本文紙が挟み込まれているが、切取り線もそのままに未使用であった。もうひとつは、黒檀に象嵌螺鈿の花模様のある華麗な表紙に、 象牙の薄い四枚の板が綴じられていて、単語帳のように横に開く。この板には、文字の書かれた痕跡があり、消し具で文字を消しながら使っていたようだ。舞踏会では、女性はこの手帖を紐や鎖で腰や指に付けた。18〜19世紀の貴婦人は、シャトレーンと呼ばれるチェーンストラップに、裁縫道具や櫛やミニアチュールなどを腰ベルトからぶら下げていた。
 舞踏会と言えば扇。「扇ことば」というのは、スペイン起源の舞踏会での扇を使った男女間の無言のサインである。二人きりになれなかった頃の恋人たちが、遠くから暗号のように意思疎通をはかったとみられる。2014年の夏のムサビオープンセミナーで、『Words of Fans』 (扇ことば) の豆本を作った。本文は、見開きに扇を使った仕草と、楕円の飾り罫の中にその意味を解説してある。青緑の表紙にタリーカードに描かれた扇を持ったシルエットの女性をあしらい、半円の函に入れる仕組み。函には、レースの扇の骨に沿って放射状に五人の貴婦人が並んでいる。函=天地85×左右92ミリ



「夢の莟ノオト」と「Nostalgic Words」

yt0765432015-01-28

*「夢の莟ノオト」と「Nostalgic Words」
 中学生から大学生にかけて、古語辞典や国語辞典、漢和辞典類語辞典を読んで、言葉を拾うのが好きだった。
 大学生の時、古語辞典から言葉を選んだノート「Nostalgic Words」 と、気に入った詩や言葉の断片や本や映画、物語の構想を書き付けた「夢の莟ノオト」、物語の出場者を蒐めた『登場人物辞典』を作った。
 古文には、美しい日本語が満載である。夢見月、夏羽月、得鳥羽月、松風月などの月の異称のほかに、身体の部位などにさえも、えもいわれぬ優雅な名前が付けられている。ひかがみ(膝裏の部分)、かいな(腕)、おとがい(頤/下顎)、まなかい(目交)、それらは若く柔軟な脳の襞々にまで沁み込んでいった。大好きな「季刊銀花」に出会う直前の時期だったが、ちゃんと「き」のところに[銀花]=雪、灯火の形容、と書いてあるのには、後に開いて見て我ながら驚いた。きれいな古語ばかり集めていたので、ラインナップに入ったのだろう。
 「夢の莟ノオト」には、紫式部の『源氏物語』のパロディ、江戸時代の柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』の原本と呼応するヒロインたちの名前を列挙。藤壷の宮→藤の方、葵の上→二葉の前、夕顔→黄昏、花散里→花郷、明石の上→朝霧、末摘花→稲舟姫、など。またピクトグラフィーとしての源氏香。(五本の短冊の天地がどのような形で繋がっているかで、香の名前がわかる。共立女子大の新館の窓が、縦に三つに桟で仕切られ、五本ではないのに、なぜかこの源氏香の形に見えた。その先の神保町交差点のスーツ屋さんのアイコンは、なんと縦4本の線で「帚木」に似ている) そしてフランス革命後の革命暦。いにしえの色名。古式の言葉。偏愛する詩人、ゲオルグ・トラークルやテオフィル・ゴーティエ大手拓次、高祖保、吉田一穂の詩の言葉。それらは、誰に教えられた訳でもなく、自分自身の嗅覚で嗅ぎ分けた、優れてひそやかなものたちだった。声高に叫ぶわけでもなく、ひっそりと咲いている広野のクローバーのなかの四葉のように、心ある少数の誰かがいつか共感してくれれば、それでよかった。
 『登場人物辞典』は、アナトール・フランスの『アベイユ姫』のアベイユとジョルジュ、『ポンペイ最後の日』のグローカスとイオーネ、『緑の館』のアベルとリーマ、『リラの森』のブロンディーヌとパルフェ、『サンダリング・フラッド』のオズバーンとエルフヒルドなどの恋人たちの名前と、脇役たちの辞典。
 好きな歌人、詩人は、後鳥羽上皇主催の五百番歌合でデヴューし夭折した若草の宮内卿大手拓次尹東柱広津里香、ルミ・ド・グウルモン、アンリ・ド・レニエ、ゲオルグ・トラークル、ジャック・プレヴェールポール・エリュアール、好きな作家は、筆頭がテオフィル・ゴーティエ、ジュディット・ゴーティエ、ダフネ・デュ・モーリア久坂葉子、中里恒子、結城信一龍胆寺雄、磯永秀雄、松永茂雄、大井三恵子…
 そして読みたくても読むすべのない本の数々。小宮山書店の店頭で、花森安治の挿絵に飾られた上巻だけをみつけて、20年近く下巻の読めなかったテオフィル・ゴーティエの『モーパン嬢』は、岩波文庫の復刻でようやく読むことができた。バイロンの『海賊』、クリスティーナ・ロセッテイの『妖精の市場』、オストローフスキーの『雪姫』は入手したが、まだヘリオドロスエチオピア物語』、メーテルリンク『マレエヌ姫』、リチャードソンの『クラリッサ』、ソフィ・コタン『マティルド』は見つかっていない。
 また、今だ書けぬ物語群。花が咲くと、雌しべが伸びてマッチになり、一輪ずつ咲いたその日に燃え尽きて落ちる「トトル・ククルとマッチの実」。裏返したみずうみは鏡になっていて、空から見ると、鏡面に湖水の生物や植物、そして死んだ女の子が映っている「裏返しのみずうみ」。「過ぎし日と来たる日の窓」「むなさわぎの森」「美貌の盗賊と七人の姫」「絲遊(かげろう)の少将」。
 当て字の頁には、いちばんのお気に入り、『シラノ・ド・ベルジュラック』より「男の羽根飾(こころいき)」などが書かれている。J・ミネカイヅカの『夜の花ざかりまたは小説』は、内容は今ひとつよくわからなかったが、馥(かお)る、巷巷(まちまち)、方策(てだて)、情景(デコール)、辯解(いいわけ)微睡(まどろ)む、といった漢字とルビの乱舞に興奮した。
 幕末の日米和親条約締結後に大急ぎで考案された諸外国の当て字には、希臘(ギリシャ)西班牙(スペイン)瑞西(スイス)瑞典スウェーデン丁抹デンマーク)白耳義(ベルギー)土耳古(トルコ)葡萄牙ポルトガル)、都市は華盛頓(ワシントン)桑港(サンフランシスコ)聖路易(セントルイス)伯林(ベルリン)羅馬(ローマ)など、苦心の跡が窺えて興味深い。 
 メモの断片は、深海の花アンベルーラ、贈答の和歌とタイトルのみ残って散逸してしまった王朝の物語、古代の彫像の口角だけをつり上げたアルカイック・スマイル(古式の笑い)、大手拓次や精神病患者などの絵にしばしば見える草花の花冠の部分が顔になっているバロメッツ(半獣半草)などなど。気に入った絵や写真を見つけて、切り抜いてスクラップするように、これらは自分だけの言葉のスクラップ帳なのだった。後々このノートからさまざまなインスピレーションを授けてもらうことになった。

落し文(オトシブミ)と花筏(ハナイカダ)

 初夏の栗の木の下などに落ちている、葉に包まれた2センチほどの箱寿司のようなもの。細長い栗の葉を縦に中表にして、くるくると巻いて、最後に表の緑を見せて巻き止めてある。そのなかに入っているのは、2ミリ位の宝石のようなオレンジ色の卵。卵が孵ると、栗の葉を食べながら成長し、幼虫になってから2週間ほどでさなぎとなり、4、5日で羽化して赤い羽の成虫となる。
 虫の名はオトシブミ。オトシブミの揺籃(巣)作りは、成虫のメスの涙ぐましい努力によって2時間あまりをかけて出来上がる。まず傷のない栗の葉を探し、主脈を残して葉を左右に噛み切り、主脈の裏から水分を抜くために傷を付け、葉を揉み込んだりして柔らかくし、巻きやすくする。そして脚で抱え込んで中表に二つ折りにし、葉先を芯にしてクレープかロールキャベツのように巻き込んでゆく。途中で穴をあけてそのなかに卵を産む。さらに巻き上げて筒状の揺籃を作る。仕上げは、最後の葉の部分を裏返して緑の表を出して巻き止めをする。
 すべての作業を黙々と終えると、メスはかすかに残っている主脈を噛み切って揺籃を地に落とし、少々休憩してから、何の未練もなく飛び去って行く。この虫は、立派な菓子職人になれそうだ。
 オトシブミにはさまざまな種類があって、コナラやクリの葉を巻いて作るごまだら斑紋のあるもの、イタドリの葉を巻く金緑色のオトシブミ、エゴノキの葉を巻く黒いオトシブミ。ズミの葉を巻く茶褐色のオトシブミ。そのほか、アカゾ、クヌギ、バラ、フジの葉なども使われているようだ。オトシブミは、夏の季語。
【落し文】公然と言うことがはばかられる事柄を、自然に人が読んでくれることを期待して、道路などに落としておく匿名の文書。落書(らくしょ)。
 ――三省堂新明解国語辞典』より 


 花筏は、水面に散った桜の葩が流れてゆく様子を、筏に例えたもので、春の季語。
 植物のハナイカダは、葉の中央に同系の薄緑色の小さな花が咲き、やがて青黒い実を結ぶ。花の載った葉を筏に見立ててハナイカダという。花は、本来芽の出来る位置に作られるため、通常は葉に花が付くことはない。この植物の場合、花序は葉腋から出たもので、その軸が葉の主脈と癒合したためにこの形になったと思われる。
 季語や風物、花々を網羅している上生菓子に、やっぱりこのふたつはあった。どちらもちゃんとその時期に並んでいた。「落し文」は、漉し餡を緑の葉っぱで巻き、卵のような白い粒が葉の上に乗っている。「花筏」は、黒豆と赤い餡が、白い 求肥の上皮からうっすらと透けて見える。派手な赤い餡は薄紅になり、色味が優しくなっている。平安朝の襲の色目のごとく。洋菓子は、下の絵具を隠蔽してしまう油彩画、和菓子、特に上生菓子は、滲みを残し、色を重ね、色を透かす透明水彩画のようだ。この透ける美意識が素晴らしい。そして、今散ったばかりのような桜の葩が一枚。こちらは、水面(みのも)に浮かぶ落花の風情である。


(参考文献:『オトシブミ』千国安之輔/偕成社刊 
ハナイカダ」Copyright(C) Atsushi Yamamoto.季節の花300)








李陸史『青ぶどう』と尹東柱『星うたう詩人』

 韓国の詩人李陸史(イユクサ)の『青ぶどう』(伊吹郷訳/筑摩書房1990年)からいくつかの詩篇を拾ってみる。
 
     青ぶどう 
 
  わが里村の七月(ふみづき)は
  青ぶどうの色づく季節  

  
  この里の伝説がたわたわ実り
  遠くの空が夢見ようと粒つぶに溶けこみ
  
  空の下まっさおな海が胸をひらき
  白帆の船がのどやかにたゆたいくれば
 

  わが待ちびとはやつれはてた身に
  チョンポを着て訪れるというから
 
  客びとを迎え このぶどうをつまんで食べるなら
  両の手がしっとりと濡れようとも厭うまい


  子よ われらの食卓には銀の盆に
  白モシの手ふきを揃えておおき


    江(かわ)を渡っていったうた

 
  師走のなかでも十五日、月あかるい晩
  あの江がかちかち凍てついた晩
  わたしの口ずさんだうたは江を渡っていったのです


  江むこうの空のはて 砂漠まで達するところ
  わたしのうたはつばくろのように翔んでいったのです


  忘られぬ娘 よるべさえないと言って
  いくにはいったが か弱い羽がちからつきれば
  やがてどこか灼熱の砂に墜ちてやけ死ぬでしょう


  砂漠ははてしなく蒼空におおわれ
  泪ぐむ星々が弔いにくる夜更け


  夜は昔日のことを虹よりもあざやかにみせるから
  うたのひとふしはここに置き もうひとふしはどこにあるのか
  わたしの口ずさんだうたは その夜 江を渡っていったのです
  

     絶 頂
  
  つきささる季節の鞭に打たれ
   ついに北方へ追いたてられた
 

  空さえもなすすべもなく力尽きた高原
  刃(やいば)のごとき霜柱 そのうえに立つ


  どこに膝を折るべきか
  一歩 つまさき立つところとてない


  それゆえまぶたを閉じておもうのみ
  冬は鋼鉄(はがね)でできた虹なのか

                   
 この詩が日本や欧米の詩と決定的に違うのは、詩人イユクサが抗日独立運動の志士であり、美しい抒情のそこここに抵抗詩として多くの暗喩を含んでいるということである。彼は抵抗を貫き、祖国の植民地からの解放を求め、終戦の前年に、北京で日本軍憲の拷問によって獄死している。「わが待ちびと」とは、悲願の「解放」であり、雪舞う「曠野」は、主権を奪われている祖国の姿である。降りしきる雪は、民族に対する強圧である。
 実弟によると、四十年に亘って亡命と投獄と放浪にあけくれた詩人が大邱(テエグ)刑務所にいた時、囚人番号二六四(イーユクサ)を朝夕刑吏に呼ばれるので、これをペンネームにしたという。イユクサは、1904年生まれ。1944年1月に、解放を待たずして獄死した。
 一方、尹東柱(ユンドンジュ)は、1917年生まれ。日本へ渡って立教大学に学び、その後、京都へ行って同志社大学へ転入する。その在学中に、 母国語で詩を書いていたドンジュは、治安維持法違反の嫌疑をかけられて鴨川署に拘束、福岡刑務所に収監され、終戦の半年前、その地で毎日得体の知れぬ注射を打たれ、27歳で絶命している。彼はクリスチャンだったが、革命の志士ではなかった。 韓国語を勉強していた茨木のり子が、「20代でなければ絶対に書けないその清冽な詩風」と書いているように、詩は若さと美しさに満ち満ちている。「韓国の立原道造」と称されているのもうなずける。



     序 詩
 
   死ぬ日まで空を仰ぎ 
  一点の恥辱(はじ)なきことを、
  葉あいにそよぐ風にも
  私は心痛んだ。
  星をうたう心で
  生きとし生けるものをいとおしまねば
  そしてわたしに与えられた道を
  歩みゆかねば。

 
  今宵も星が風に吹きさらされる。
 
 

     雪降る地図
  
 順伊(スニ)が去るという朝 せつない心でぼたん雪が舞い、悲しみのように窓の外
 はるか広がる地図の上をおおう。部屋の中を見廻しても誰もいない。壁と天井が真っ
 白い。部屋の中まで雪が降るのか、ほんとうにおまえは失われた歴史のように飄然
(ふらり)と去ってゆくのか、別れるまえに言っておくことがあったと便りに書いても
 おまえの行先を知らず どの街、どの村、どの屋根の下、おまえはおれの心にだけ残
 っているのか、おまえの小さな足跡に 雪がしきりと降り積もり後を追うすべもない。
 雪が解けたら のこされた足跡ごとに花が咲くにちがいないから 花のあわいに足跡
 を訪ねてゆけば 一年十二カ月 おれの心には とめどなく雪が降りつづくだろう。


 私は、先に『青ぶどう』を読み、伊吹郷の訳詩が抒情的な上に品格があり、音読しても滑らかだったので、それは日本語の構成に負うところが多いと思った。金素雲訳編の岩波文庫の『朝鮮詩集』に李陸史の詩は二編収録されているが、やはり伊吹訳の方がリズムが美しかった。尹東柱の『星うたう詩人』(三五館/1997年)は、装丁の仕事として手がけたものだが、その時はじめて尹東柱の名を知った。文中に、伊吹訳と詩碑建立委員会訳が混在していて、当時はあまり気に留めなかったが、のちに『空と風と星と詩』(伊吹郷訳/影書房2006年3刷)の巻末で、伊吹訳が誤訳であるとの指摘に、伊吹氏が反論を述べているのを読んだ。訳詩は、直訳がよいとは限らず、リズムや全体の調和、何よりも日本語が最も大切で、訳語を重視しなくては、つまらない散文になってしまう。完成度と格調からいっても、伊吹訳の右に出るものはないと思った。
 ポール・ヴェルレーヌの「Il pleure dans mon coeur」の訳は、堀口大学のタイトルは「巷に雨の降るごとく」、鈴木信太郎は「都に雨の降るごとく」。第一連の言い廻しは堀口訳、第二連の響きは、鈴木訳が優れていると思う。

 
   巷に雨の降るごとく
   わが心にも涙ふる。
   かくも心ににじみ入る
   このかなしみは何やらん? (堀口訳)

  
   大地に屋根に降りしきる
   雨のひびきのしめやかさ。
   うらさびわたる心には
   おお 雨の音 雨の歌。  (鈴木訳)


  不遜にも二つをミックスしてしまったが、訳詩は、多少意訳をしても、日本語の美しさのほうが重要である。
  さて、日本帝国の支配下におかれ、創氏改名を強いられ、母国語を使うことを禁じられ、弾圧され獄死した二人の詩人。日本人は、自国の被害は声高に言い、後世にも伝えているが、近隣の他国への加害の歴史はきちんと語り継いでいない。戦争体験すらないくせに、あったことをなかったことにしたい恥多き人たちを、これ以上増やしてはならない。




『メランコリイの妙薬』と『ノスタルジアの妙薬』

 レイ・ブラッドベリの短編集『10月はたそがれの国』を読んだのは、中学生の時。赤毛の魔女と大きなトカゲが妖しい建物の前を歩いている表紙の絵に、ひどく興味をそそられたからだ。初めて買った文庫本だったかもしれない。今でも覚えているのは、この中でもごく短く、しかも鮮烈な読後感を残す「みずうみ」だった。
 湖水の渚で幼い少年少女の短い交流があり、二人で半分ずつ、砂の城を作って遊んだ。しかしある日、少女は湖水で行方不明になってしまう。長い長い時が過ぎ、新婚の妻と一緒に、湖を訪ねたかつての少年は、監視人が引き上げた小さな灰色の袋の中を見る。汀の浅瀬で待ち続けた少女。年もとらず、仕草も同じ、そのままで凍りついたような少女が、10年を経て発見されたのだ。大人になった少年の駭き……。
 同じ題名でもシュトルムの「みずうみ」は、イムメン湖のほとりで、かつて思い合った恋人たち、今は若夫人となったエリーザベトと、学問の道に生きるラインハルトの淡くも苦き再会の物語である。湖に浮かんでいる白い睡蓮の花を、泳いで手折ろうとしてついに果たしえなかったラインハルト。その睡蓮の花は、決して自分のものに出来なかったエリーザベトを象徴するかのような遠くて仄かな花である。
 この物語は、老人がプロローグとエピローグに登場し、過ぎし日を回想する「枠物語」となっており、幾年が経てもラインハルトはエリーザベトを想い続け、今は孤高の学究となっていることが判る。
 立原道造ソネット(十四行詩)の「はじめてのものに」の最終連に、
    
    いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
    火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
    その夜習つたエリーザベトの物語を織つた


 というフレーズがあり、この物語が、初歩のドイツ語のテキストに使われていた事が窺える。  
 ブラッドベリの作品でそのほかに忘れがたいのは、『たんぽぽのお酒』と「メランコリイの妙薬」。大学時代の同級生が「たんぽぽのお酒」作りに夢中になっていたが、賞味させてもらったこともなく、熟成に成功したものかどうかは、今もってわからない。
 「メランコリイの妙薬」は、鬱の少女が、病重くもう助からないような状態になったところに、吟遊詩人が現れ、満月の夜にベッドを戸外に出して、月光を浴びて眠るようにと指示をする。そして翌朝、少女は晴れ晴れとした表情をして、家族は見事に病が癒されているのを知る。この短編も多くは語らず、実は何だったのかは、想像するしかない。
 ブラッドベリに触発されて、中学校の生徒会雑誌に「砂糖漬専門店」を、高校の生徒会雑誌に「ノスタルジアの妙薬」を書いた。
 「ノスタルジアの妙薬」は、「メランコリイの妙薬」からインスピレーションを得たもので、全記憶を喪失している男が主人公。降り止まない雨を見つめながら、公園のベンチで雨宿りしているあてどのない身である。彼の知りたいのは、ただただ自分の過去だけだった。
 雨に打たれた草むらのなかで、ふと目にした光っている小壜。一着しかない服を濡らしながらも、それを掴んだ主人公の目に、小壜のラベルがするどく目に飛び込んでくる。
 ―ノスタルジアの妙薬―!
 効能書きを見て、彼は躍り上がった。……これを飲みたる者には、必ず強き郷愁の念あり。効力は世に比類なきものなり。されど、……
 そのあとに書かれているはずの副作用への注意は、破れて不鮮明で、読むことは叶わなかった。しかし「強き郷愁の念」は、この数年の鬱屈を忘れてしまうほどに魅力的な言葉だった。ためらわず薬を飲んだ彼は、導かれるようにある建物をめざして歩いていった。旧い研究所の一室、そこに間違いなく彼のアイデンティティがあったのだが……。
 この「ノスタルジアの妙薬」を小さな本に仕立てたのは、1996年、毎日新聞社のギャラリーで2度目の個展を開催した時だった。背面に鏡を貼った特注のアクリルケースを作り、12ヶ月の本を飾った中の、6月の本としてだった。ガラス2枚に丸い錠剤を模した和紙を挟みこみ、その上に、ガラスを包み込んで壜状にくり抜いたキラ入り紙クロスを貼ったので、表紙がやや分厚くなってしまった。斜めに落としたボードの厚みには、グレーの蛇革が継ぎ表紙になっている。見返しは手染めのマーブル紙。本文紙はグレー。函は、斜め蓋付きのライターのような形で、蓋の部分にタイトル、下部はオーストリッチ風牛革を貼ってある。天地90mm×左右60mm。凝った割には、出来映えは今ひとつである。



ジャック・プレヴェール『鳥の肖像を描くために』

 ジャック・プレヴェール ( Jacques Prévert 1900-1977)は、詩人としてだけでなく、童話、シナリオ、シャンソンの歌詞と幅広く活躍した。シャンソンの「枯葉」、映画のシナリオではジャン・ギャバンミシェル・モルガン主演の「霧の波止場」(1938)「悪魔が夜来る」(1942)「天井桟敷の人々」(1945)ういういしいアヌーク・エーメの「火の接吻」(1949) アニメーション「やぶにらみの暴君」(1952/シナリオは読んだがアニメは未見)「ノートルダムのせむし男」(1956)など多数ある。
 そのジャック・プレヴェールの詩に、「鳥の肖像を描くために」(Pour faire le portrait d'un oiseau)というお洒落な一編があり(『ことば』Paroles 所収1945)、エルサ・エンリケスへ(à Elsa Henriquez)と画家への献辞が書かれている。
 エルサ・エンリケスはメキシコの女流画家で、この詩はシャンソンとしても唄われたらしいが、彼女の展覧会に寄せて書かれたものである。プレヴェールにとっての鳥は、自由の象徴であった。
 エルサの絵の入った英語とフランス語併記の絵本(1971)を神田源喜堂で見つけたときは、嬉しくてすぐに購入した。


 まず鳥籠をひとつ描くこと
 ただし戸はあけておく
 それから次に
 何か綺麗な
 何か美しい
 何か役に立つ
 鳥にそう見えるものを描く
 さてカンヴァスを木に立てかける
 庭でも
 林でも
 森の中でもいい
 その木のうしろに身をかくす
 何も言わず
 じっと動かず……
 鳥はすぐ来ることもあるが
 何年も何年もかけたあげくに
 やっとその気になることもある
 がっかりせずに
 待つことさ
 必要なら何年でも待つ
 鳥がすぐさまやって来るか
 ゆっくり来るかは
 絵の出来ばえに関係ないんだ
 いよいよ鳥がやって来たら
 もし来たら
 あくまでも息をひそめて
 鳥が籠に入るまで待つ
 入ったら
 絵筆でそっと戸をしめる
 それから
 籠の棒を一本一本消して行く
 鳥の羽根には絶対にさわらぬように気をつけて
 さて次に木の肖像にとりかかる
 枝もいちばん美しいのを選んでやるんだ
 鳥のためにさ
 さらに描き足す 緑の葉むら さわやかな風
 舞い散る日ざし
 夏の暑さの中で草にひそむ虫の音など
 そうして鳥が歌う気になるまで待つんだ
 もし鳥が歌わなかったら
 よくないしるし
 絵がよくないしるしだが
 歌ってくれればしめたもの
 名をしるしてもいいしるし
 そこであなたはそっと
 鳥の羽根を一枚ぬいて
 絵のすみっこにあなたの名前を書くというわけ。
               (安藤元雄訳)


 女流画家が、キャンバスに戸の開いた鳥籠を描き、左側に綺麗な羽根と花とリボンで飾られた吊るし籠を描く。そしてカンヴァスを木に立てかけて、鳥がおとずれるのを辛抱強く待つ。いよいよ鳥がやって来て、鳥籠に入ったら、絵筆で戸を閉め、籠の棒を一本ずつ消して行く。次に鳥の周囲に葉むらを描き、風を描き、日ざしを描き、虫の音を描く。首尾よく鳥が歌いはじめたら、鳥の羽根を一枚ぬいて絵の右下にサインをする。
Elsa Henriquez と。