散逸物語うたのしるべ

 『散逸物語の研究––平安鎌倉時代編』小木喬著、笠間書院刊。定価9500円。厚さ6cmの函入りの大冊。神田小川町にオフィスのあった頃、神保町の西秋書店で購めた。まだ売れていない、今日もまだ、と毎日確かめながら、ようやく手に入れた時は、どんなに嬉しかったことか。
 平安時代紫式部によって『源氏物語』が書かれたあとに、その人気にあやかってか、室町時代にかけて亜流の物語が次々と生まれた。『夜半の寝覚』『浜松中納言物語』『とりかへばや物語』『狭衣物語』『葉月物語』など、内容が判明しているもののほかに、名のみ残って散逸してしまった数々の物語があった。物語の全容がわからなくても、その存在とおおよそのプロットがわかるのは、物語のなかの贈答歌が、『無名草子』や『風葉和歌集』などの文献に、切れ切れに垣間見ることができるからである。たとえば、「夢ゆゑ物思ふ」は、『風葉和歌集』に、あめわかみこと中宮の返歌が三首掲載されている。
 
                   夢ゆゑ物思ふのあめわかみこ
  哀とは思ひ出じや人しれぬ夢のかよひぢあとたえぬとも         
     御かへし          中宮
  これやさはかぎりなるらんうば玉のよなよなみえし夢のかよひぢ

     御かへし          夢ゆゑ物思ふのあめわかみこ
  数ならぬ身には雲ゐの藤の花こころの松もいかがしるべき


 中世小説に「天稚彦物語」というものが二種ある。一つは異類の求婚・天空遍歴から成る七夕由来譚、もう一つは、天稚彦と人間の恋愛談であり、後者が「夢ゆゑ物思ふ」の改作であると言われている。


 ランダムに失われた作品のタイトルを書き出してみると、なんと想像力をかき立てる魅力的な物語群だろうか。 


   あさくら山
   さとのしるべ
   四季
   しらら
   しづくに濁る
   しのびね
   末路の露
   玉藻に遊ぶ権大納言
   露のやどり
   せりかは
   はこやの刀自
   扇ながし
   みづからくゆる
   むぐらのやど
   山吹
   水あさみ
   闇のうつつ
   みかはにさける
   みなせ川
   水あさみ
   夢ゆゑ物思ふ
   よそふる恋の一巻
   夢路にまどふ
   緒絶えの沼
   網代
   流れてはやきあすか川


 1989年の初の「豆本と装丁展」の折に、神保町の檜画廊の向かって左側のウィンドウに飾ったのが、この物語の中から撰んだ題名と和歌を折本に仕立てたものである。絵を私が描き、父に毛筆で文字を書いてもらった。『流れてはやきあすか川』は、試みに薄みどりの紙に書いた文字が残っていて、その流麗な筆使いに、肉親ながらほれぼれとしたものだった。翻訳絵本のタイトルのレタリングも描いていたので、書家の感覚ではなく、デザイナーとしての緩急のリズムが絶妙であった。留め、撥ね、文字の大小、ストロークの変化も自在にできたようである。
 字の上手さと人格とは必ずしも正比例しないが、試し書きでも捨てられないし、何となく尊敬の念をいだいてしまう。父は絵も文字も独学だったが、何事も徹底的に極め、決して途中で投げ出すということがなかった。思想信条も終生変えることなく、三省堂地下レストランのランチの時間は、毎日政局の話ばかりだった。しかし、人前では自分の能力をひけらかすことはなく、雇われずして仕事ができるのが嬉しくてたまらない様子だった。
 美しい文字というと、すぐに思い浮かぶのは三島由紀夫だが、原稿の実物を見たことはない。松永伍一さんの400字詰め原稿用紙に書かれた文字をそのまま横長の紙面に原寸で印刷し、伴颺さんの絵と共に函入豪華版詩画集『道祖神、その幻聴』を作ったことがあった。出版記念会で著者のお二人とお話したが、事前に拝見していたその文字は、三島の一糸乱れぬ優美さよりも、もう少し生真面目で硬質な美しさであった。そして、久世光彦さんの文字は、戴いた書簡が手許に残っているが、「僕はあの字で耽美的な文章を書くと自分に酔ってしまうから、ワープロで書くんだよ」とおっしゃっていたように、うっとりするような華麗で勢いのある文字であった。コンピュータは使えないからと、買い貯めておかれたインクリボンを、おそらく使い切ることなく、突然逝かれてしまった。出典のわからなかった漢詩を『和漢朗詠集』に収録されていることを教えてくださったのも、久世さんだった。
 『散逸物語うたのしるべ』は、奉書紙を使った既成の折本に文字を書き、絵の部分は和紙の色紙を貼り、表紙は、新宿に束の間在った和紙の店「ももよ草」で購めた、土佐の紫の濃淡の斑(むら)染め縮み和紙でくるんだ。制作は1979年。天地122×左右90ミリ。最初の個展の本はまだ稚拙で、大きさもバラバラだったが、次の毎日ギャラリーでは、背面に鏡を貼ったアクリルケースを設計して、中に飾る本はおのずから8センチ前後に落ち着くようになった。



本郷三丁目と「カミーユとマドレーヌの愛の物語」

 本郷も「かねやす」までは江戸のうち、というその「かねやす」の数軒となり、本郷三丁目の駅の近くに洋品店カミーユとマドレーヌ」がある。
 十数年前、仕事帰りに間口の狭いその店に入ってみようと思ったのは、「カミーユとマドレーヌ」が、 フランスのセギュール夫人の物語『ちっちゃな淑女たち』の主人公の幼い姉妹の名前だったからである。サブタイトルが「カミーユとマドレーヌの愛の物語」。
 少女ではない従業員のメイド服に、当初はなかなかに違和感があった。当時はまだメイド喫茶などなかったので、メイド服というより、エプロン付きドレスといった感じ。セギュール夫人の過ごしたヴィクトリア朝時代には、裕福な家庭の子女は、皆同じような格好をしていた。ケイト・グリーナウエイの絵本にもそんな格好の少女がよく登場する。オーナーが『ちっちゃな淑女たち』が大好きだからということを知ってからは、親近感こそあれ、ほとんど抵抗がなくなってしまった。
 セギュール夫人作/平岡瑶子・松原文子訳/三島由紀夫推薦の帯と序文の付いたその本は、 大判のA4判に堅牢な函付きの厚くて立派な本だった。しかも毎頁のようにカラーの美しい挿絵が入っていた。内容は、童話というよりも、上流階級のための「マナーと言葉使いの躾読本」のようなものだった。池田裕彰の装画と挿絵は、おそらく彼の仕事のなかでも渾身の作であり、構図も斬新で最高峰といってもいいほどの、気迫に満ちてエレガントなものだった。
 セギュール夫人は、鹿と王女の物語『リラの森』の作者としても忘れがたい。夫人は、『リラの森』のようなフィクションではなく、幼い孫娘のカミーユとマドレーヌのために、彼女たちの日常そのものを、あたたかい目を持って書いたのである。
 平岡瑶子の夫君であった三島由紀夫の序文には、
 ……『ちっちゃな淑女たち』には、美しい言葉、美しい心、美しい行為とは何かということが絶えず問われています。そのむかしのフランスで美しかった言葉、美しかった心、美しかった行為が、今の日本でそのまま美しいとは限りません。けれども、ある形に結晶し完成された生活や道徳は、その安定した美しさで、別の美しさを誘い出します。一つの美しさは別の美しさと照応し、一つの美しさによって別の美しさが誘い出される。これが美の法則でもあり、道徳の法則でもあります……。
 いま書き写してみると、「美しさ」満載で重複も多く、三島の練達の文章とはほど遠いように思えてくる。発行日は、昭和45年7月20日、その4ヶ月後の11月25日に、彼は自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決している。決起を前に気もそぞろで、文章を練っている余裕などなかったのだろうか。
 マイクもなく、駐屯地のバルコニーで絶叫した憲法改正の演説を、昼休みの自衛官たちはまったく聞いていなかったばかりでなく、野次さえ飛ぶ始末だった。 のちに野上弥生子は「三島さんに、マイクを差し上げたかった」と語ったという。
 ……いくつかの偏見をも含めて美しい、何がよいとされ、何が悪いとされたかが厳然とした生活が、優雅に描かれているこの小説には、どんな時代になっても女性のあこがれである「レディー」の教育の典型が語られており、……という下りを読むと、三島の短編『女神』を思い出す。愛娘に完璧なレディー教育を施したつもりでありながら、 娘の心は忌むべき風来坊に奪われてしまうという皮肉な結末であった。
 http://d.hatena.ne.jp/yt076543/20120726 三島由紀夫から佐々悌子への手紙
 ともあれ、この本は絵もレイアウトも装丁も美しい。本文に毎頁小さく入っているシルエットは、章ごとに違う絵に変わっていく。目次のスプーンとフォークも洒落ている。長く愛蔵するにふさわしい一冊である。


  角川書店の編集部が飯田橋に移転し、本郷にはめっきり足が遠のいてしまったが、赤門の中に勤務している友人に会いに行くときには、本郷三丁目交差点の和菓子の三原堂と、「カミーユとマドレーヌ」に寄って帰るのが習わしになっている。今年のゴールデンウィークの神保町での展示に、三原堂の上生菓子を含むミニチュアブック『WAGASHI』を飾った。三原堂の社長さんがお見えになったのに、折悪しく不在で、お目にかかるのは叶わなかった。しかしまた本郷三丁目に行くときは、季節の上生菓子を買って、「カミーユとマドレーヌ」を覗いて見るだろう。


現代豆本館と三井葉子の『夢刺し』

*現代豆本館と三井葉子の『夢刺し』

  大学生の時、『私の稀覯本豆本とその周辺 〉 』(丸ノ内出版)という、当時としてはかなり高価ではあったものの、手にしたからには買わずにはいられない本と出会った。カバーには、西洋の重厚な豆本棚に、革装箔押を施された瀟洒で小さな本たちが、宝石のように収められている。棚のそばに置かれたタバコと灰皿で、おおよその大きさが判る。
 本文には、毎頁上段にコレクションした本の書影とタイトルと寸法が記されていた。
 読み進んでいくうちに、著者の今井田勲という人は、主婦の友社から戦後文化服装学院出版局に局長として招かれ、「ミセス」「銀花」の名付け親だということ、そして、内外の豆本コレクターの第一人者であることを知った。しかし数年後、その人が局長である出版社に就職することになるなどとは、ゆめゆめ思いつく筈がなかった。
 それよりも、静岡県藤枝市にあると書かれている「現代豆本館」には、ぜひとも行ってみたいと思い、すぐに決行した。今井田さんのお友達で、「静岡豆本」の版元のお医者さんが、国道一号線沿いに建てた小さな赤い三角屋根の喫茶店兼図書館である。説明をしてほしいと喫茶店のマスターに頼むと、ほどなくして、 小笠原淳館長がいそいそとやってきて、嬉しそうに解説をしてくれた。サンドイッチもご馳走になったような気がする。以来、先生が上京し、神保町に足を向けるときは必ず呼んで下さり、お寿司の「いろは」に連れて行っていただいたりした。そればかりか、「かながわ豆本」の井上美子さんをご紹介下さり、そのなかの一冊,関根弘さんの『路地裏のブルース』の装画を依頼されて、明るい昼下がりのゴールデン街に取材に行き、スケッチを何枚も描き続けた記憶がある。
 ヴァイオリンを習っていた井上さんのお嬢さんの美樹ちゃんに、岩波新書の『ヴァイオリン』からドイツのお話を絵本に仕立てて贈ったこともあった。社会人になってからは、息子さんが事業を始めた時、一緒に事務所を営んでいた父が、新しい会社のロゴマークを作成したこともあった。
小笠原淳さんから最初にいただいた豆本が、三井葉子の『夢刺し』だった。名刺に活版で一編の詩のみが刷られている。それを半分に折って、タイトル含め8頁分を木版刷の表紙に挟み、赤い糸で綴じてある。このとき初めて三井葉子の詩に触れた。その何とも言えない言葉の妙に惹かれて、『浮舟』という詩集を買った。知的で抑制された官能とでも言おうか。薫香を纏った優雅なトカゲが、 ぬめりと地を這ってゆくような感じだ。
 
  つつじ
 死にたいとあなたがお言いになれば
 ひのしをしている布(きれ)のうえに
 山のつつじが燃え浮かぶ
 いのちを寄せるのがそんなに単純なことなのを泣きながら
 白い色につつじのいろの寄るはやさにも及ばずに
 燃えるつつじの谷まで
 ゆっくりと駈落とされてゆきます
                 (詩集『夢刺し』より)
 
  雨のあと
 雨のあとでふじのつるがゆるんでいた。
 はなの散っている池に日が射している
 わたしはどこにもゆかなかった
 それなのにこんなにとおくにきたわ とあなたに言って
 もつれてみたいとそうおもっていた
 あめのあとの葉のさきで
 あしをあげてきんの糸をからめている蜘蛛のうごくのをみていて。
                     (詩集『浮舟』より)


  あいびき
 そとはもうくらく暮れてきても
 あなたがおいでになる戸のそとにたって わたしはあなたを待って
  いましょう
 すこしでもはやく会えるように
 あなたが濃いところをめじるしにしておいでになるように
 くちばかり赤く濃く塗って
 さぐる手が
 そこはふかいの きをつけてなどと言っているあいだにとどいて
  しまうのでしょうね
 ちいさいむらのなかにさいているあじさいのはなのように
 あやめもしらずにさいてしまうしろい首のはなのように
 ふかいところからふかいところに渡るようにして。
                 (詩集『浮舟』より)


  はからずも今井田さんのもとで働くことになって、その短い二年のあいだに、「カネボウ・ミセス女流三賞」が創設された。現代短歌女流賞、現代俳句女流賞、現代詩女流賞がそれであり、『浮舟』で第一回現代詩女流賞を受賞したのが、三井葉子さんだった。この賞はスポンサーであったカネボウの経営不振のゆえなのかどうか、十三回で終焉を迎えている。お会いしたこともなく、写真での凛とした和服姿ばかりが眼裏(まなうら)に残っているが、この二月に不帰の人となった。三井さんは、小笠原さんと、まだお会いする前の今井田さんを繋ぐ絲であり、その詩とともにひそかに胸のなかにしまっておきたい詩人である。




ロマン・ロラン『花の復活祭』と『獅子座の流星群』

 春の芽吹きを感じる3月になると、ロマン・ロランの戯曲『花の復活祭』を思い出す。そして、日暮れの早い11月になると、『獅子座の流星群』に思いを馳せる。それぞれは、ロランがフランス革命に題材を採った一連の戯曲のプロローグ(序曲)とエピローグ(終曲)に位置している。  
『花の復活祭』――時は1774年の枝の日曜日の前日。大公クルトネの城館の見晴し台。露台で逢引きしているのは、大公と元帥夫人との庶子ド・ツリー士爵と庭造りの娘ユシェット。士爵の義理の兄である伯爵は、自由主義者と親交のある父大公とも対立していて、義弟のこともこころよく思っていない。弁護士のマティユ・ルニョーは、幼なじみのユシェットに恋しているが、ユシェットはド・ツリー士爵に夢中である。
 そこへ、大公がすべての相続権を士爵に譲ったとの報が入る。士爵の身に危険が迫っているのをルニョーは感じとるが、すでにランプを持った、士爵に恨みを持つゲランと共に森に出て行ってしまったあとだった。森から銃声が聞こえ、ユシェットは失神する。


 1789年に民衆決起のフランス革命が起こり、バスティーユ牢獄襲撃 、ルイ16世マリー・アントワネットらの処刑、王政の廃止 、そして国民による共和制が成立する。

 フランス革命暦は、詩人ファーブル・デグランティーヌによって文学的な月名が考案された。春は-al, 夏は-idor, 秋は-aire, 冬は-ôse, と、3ヶ月ごとに脚韻を踏んでいる。 しかし1ヶ月を30日とするこの暦は不評だったようで、わずか12年で廃止され、元のグレゴリオ暦に戻った。


[春] Germinal ジェルミナル(芽月)
[春] Floréal フロレアル花月
[春] Prairial プレリアル(牧草月)
[夏] Messidor メスィドール(収穫月)
[夏] Thermidor テルミドール(熱月)
[夏] Fructidor フリュクティドール(果実月)
[秋] Vendémiaire ヴァンデミエール(葡萄月)
[秋] Brumaire ブリュメール(霧月)
[秋] Frimaire フリメール(霜月)
[冬] Nivôse ニヴォーズ(雪月)
[冬] Pluviôse プリュヴィオーズ(雨月)
[冬] Ventôse ヴァントーズ(風月)


 やがて、革命政府の中にも内紛が相次ぎ、ダントンの処刑、ジャコバン派ロベスピエールの恐怖政治とテルミドールのクーデターによる処刑のあと、総裁政府が樹立された。しかし、1799年ブリュメール18日ナポレオン・ボナパルトの総裁政府の打倒によって革命は終焉を迎えた。


 さて、『獅子座の流星群』は、『花の復活祭』から23年後の1797年の秋、 場所はスイスのソリエル。かつての革命の闘士、もとジャコバン党(革命左派)員で弁護士のルニョーと、支配階級だった公爵(もと伯爵)が亡命先のソリエルで再会する。ルニョーの娘マノンは、実は士爵ド・ツリーと園丁ユシェットとの子で、ユシェットと結婚したルニョーが育てながらも、王家クルトネの血が混じっている。公爵の息子の伯爵は、昔ジャン・ジャック・ルソーの手を引いていた幼い子爵ルネである。伯爵とマノンは、たちまちにして惹かれ合う。
 亡きユシェットとルニョーの間には、病弱な息子ジャン・ジャックがいる。ルソーの名をもらったこの少年は聡明で、老いた父と公爵が今も持ち合っている確執を、春の水のように溶かしてしまう。両者を和解させてこと切れる少年ジャン・ジャックの姿に、平和主義者ロランの崇高な魂をみるような思いがする。
 この時、舞台の円屋根いっぱいに、流星が束になって拡がり、点火され氾濫する。天空に星が流れる。獅子座の流星群である。


マノン  火の雨が降る!
公 爵  獅子座の流星群だ!……11月という天の花火師が、手にいっぱい金の殻粒(つぶ)をつかんで夜の中に投げる。……そうだ。あれは一星座の破片だ。破壊された一世界――獅子座の勇ましい塵だ。
ルニョー 亡命を。
公 爵  いや、征服を。古いフランスと新しいフランスとは互いに支持し合って世界中に種を撒きに行く。


 ロランには『ピエールとリュース』という忘れがたい小説がある。第一次世界大戦下のパリ。ドイツ軍の空爆を受けているさなかに、二人の男女が地下鉄の駅で出会う。これを第二次大戦に置き換えて映画化したのが、1950年の今井正監督の『また逢う日まで』。出征前夜の岡田英次を新橋駅で待つ画学生久我美子の初々しさ。そこへ空襲警報のサイレンが聴こえてくる…。1992年の毎日新聞連載の「戦後映画史・外伝」によると、折しも東宝労働争議の真只中。この映画の製作関係者全員が、レッドパージで解雇されたという。


みすず書房ロマン・ロラン全集10 フランス革命劇1』岩波文庫『獅子座の流星群』ともに片山敏彦訳)


ロシアのマッチラベルの豆本『ЯРЛЫК СПИЧКИ』

【一日講習のお知らせ】

昨年から延期になっていた吉祥寺産経学園の「マッチ函に入ったロシアのマッチラベルの本」の講習をいたします。
マンドリンアコーディオンを弾くルパシカの青年、ケーキをかかげたりスケートをしている少女など、ロシアのマッチラベルをコレクションしたマッチ函に入った豆本『ЯРЛЫК СПИЧКИ』。ラベルは原寸。本は左右58×天地76mm 。内函は赤、黒の外函には、側面に摩擦面に見立てた紙ヤスリを貼り、表には金のパイプと火のようなビーズで作られた小さなマッチ棒があしらわれています。写真の表紙はメタルゴールドの革ですが、講習では紙になります。紙の折りとカットに馴れている中級以上の方に。
[日時] 2014年3月30日(日)13:30〜16:30
[場所] 吉祥寺産経学園 TEL 0422-40-2261  


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大きな数と小さな数

yt0765432014-03-03

 大きな数といっても、「兆」以上になじみのなかった国民が、その10000倍の単位、京をはっきりと認識したのが、福島第一原発放射能洩れ事故だった。
 京(テラ)ベクレル、といわれてもどれほどの多量さなのか、まるで見当がつかない。しかし、何のためにだかわからないが、京の上には、13もの大きな数の単位があるのである。




じょ(のぎへんに予)






恒河沙(こうがしゃ)
阿僧祇(あそうぎ)
那由他
不可思議
無量大数


 「那由他」は、むかし、物語の主人公の名に使ったことがあったが、語感優先で、大きさとは無関係だった。
 さて、小さな数には、分、厘、毛くらいまでは記憶にあると思うが、その下にさらに20の単位がある。いったい誰が考えて、何に使うのだろうか。











模糊
逡巡
須臾
瞬息
弾指
刹那
六徳




 「模糊」は、曖昧模糊を想像させる。朦朧として、訳が分からなくなってくるくらいの小ささなのだろうか。そして逡巡する。「須臾」は極めて短い時間と云う意味で、

2012年9月28日のブログ
広津里香『死が美しいなんてだれが言った』と『蝶の町』
http://d.hatena.ne.jp/yt076543/20120928
のなかで、広津里香の父君萬里氏が「時にこの残忍な災厄、須臾(しゅゆ)にしてあなたはこの地上を去った。……風のように駆け抜けて、手をさしのべるいとまもなく、あなたは逝った。」と29歳で夭折した娘を追悼している。

 そして、小さくなればなるほど虚空清浄になってくるらしい。
 とすると、「無量大数」は清浄とは対極にあるのだろう。縁のないことは幸いなり。

津村信夫「荒地野菊」と恢復(コンパレツサンス) の力

yt0765432014-02-26

    ――嘗てはミルキイ・ウヱイと呼ばれし少女に――
  指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。
  高原を走る夏期電車の窓で、
  貴女は小さな扇を開いた。


 津村信夫の詩は「ミルキイ・ウヱイ」とひそかに呼んだ少女、内池省子との出会いと訣れからはじまる。昭和六年、慶応大学の学生だった信夫は、日比谷の舞踏会ではじめてミルキイ・ウエイと顔を合わせる。
 同年夏、避暑地の沓掛(現・中軽井沢)で二人は再会し、浅間牧場へ遊ぶなど楽しい日々を過ごした。しかしわずか一年ののちに、省子の突然の婚約によって、交際は一方的に断ち切られてしまった。その短かった日々は、いくつかの詩編と小品「みるきい・うゑい傳説」「火山灰」で読むことができる。 それらは「さらば、束の間の夏の強き光よ」と書かれているように、儚い恋愛のかたみでもあったのだ。
 のどかに高原を走るおもちゃのような電車と、扇の陰の美しい少女。信夫の初期の詩は、どれもこの情景のようにすがすがしい清らかさが漂っている。
 信夫は神戸に生まれ、法学博士でドイツ的精神の父と、夢見がちで文学好きの母、そして兄や姉の間で、誰にでも好かれる快活な少年だった。家族に寄せる愛情は殊に深く、処女詩集『愛する神の歌』は、夭折した姉道子に捧げたものであったし、第二詩集『父のゐる庭』は、庭が好きだった父への追慕と鎮魂のうたであった。
 そういう素直な青年が、生涯でただ一度、父と母を向うにまわして意志を貫いたのは、信濃乙女小山昌子との結婚を決意した時だった。昭和九年の夏、信夫は卒業論文を書くために沓掛の観翠楼に滞在、そこへ長野から手伝いに来ていたのが昌子だった。


  その橋は、まこと、ながかりきと、
  旅終りては、人にも告げむ、
  
  雨ながら我が見しものは、
  戸倉の灯か、上山田の温泉(いでゆ)か、

  
  若き日よ、橋を渡りて、
  千曲川、汝が水は冷たからむと、
  忘るべきは、すべて忘れはてにき。


 長野の昌子のもとに通う、信越線車中からのこの雨に煙る風景は、まだ許されぬ恋のさなかにあった信夫の胸に、どんなに切なく、またどんなに深く沁み入ったことだろう。 
 二年後の昭和十一年、信夫の熱情と真意、そして一家ぐるみで交際のあった室生犀星の口添えによって、二人の結婚はようやく実現する。
 信夫が 「マリア」と呼んでいた昌子は、ミルキイ・ウエイとはまったく違うタイプの少女だったらしい。彼は昭和十年の日誌に、「マリアに余は常に真実を見る。余はこの真実を最も愛するなり」と書きしるしている。昌子と知り合った頃から、彼の詩は次第に変化を見せはじめる。『愛する神の歌』の優雅な抒情は、『父のゐる庭』 に至ってはすっかり影をひそめ、「其処にはこの国の美と静かさに身を沈めた、詩人の安らひをはつきりと見る事ができた」と、野村英夫が「山のトロル――津村信夫論ノート」で述べているように、より素朴な、より日本的な美しさを求めるようになっていた。いかにも避暑地らしい異国的な軽井沢よりも、日本の田舎らしい信濃追分を愛して、さらに結婚の前後から山深い戸隠の村に幾度も足を運んでいた。

 詩「荒地野菊」と小説「荒地野菊」は、ともに追分の村ぐらしの所産である。とすれば、この花は夏の追分に咲いていたものに違いない。しかし思い返しても、ゆうすげの黄や桔梗の紫に眼を奪われて、あるいは咲いていたかもしれないのに、かつて一度たりとも荒地野菊を探そうとしたことはなかった。


……そして、若い婦人は静かに後を振りかへつてゐた。口もとに静かな、微笑を湛えて、「間違ってゐたら御免なさいね。あの、荒地野菊と云ふのぢやなくつて、小さい時、私達はそんな風に呼んでゐたと思つたわ」
 婦人は、娘さんの手にしている野の花を、ぢつと眺めてゐた。
「荒地野菊、いやそれで結構、それに相応しい」
 先生は感心したやうに云つた。そして私の場合は、その幾倍か感じ入るものがあつた。                             
 小品「荒地野菊」のなかで、主人公は、同宿のドイツ語の先生と近隣の娘さん、脇本陣に泊まっている若い婦人と追分の草むらの中を歩いていく。


……歩き出すと、明るい午後の陽射しは、まだ少し汗ばむ位だつた。そして、その美しい陽射しの中には、何か人間の心に、恢復(コンパレツサンス) の力を興へるものがあつたらしい。その上、娘さんの方は至極快活である。その快活に先生も感染した。私も感染した。


 このひとくだりに、恢復したての私も深く感じ入るものがあった。路傍にこぼれ咲いた野の花は、 どれほど地味であろうとも、午後の陽射しのように、どんな苦難にも屈しない強靱さとあたたかい恢復の力を感じさせるからである。
「待つことを覚えなければならない 辛抱つよくあらねばならない
 恢復期にエネルギーが湧いてくる」
 という結城信一さんが好んだボナールの言葉が、ふっと浮かんでくるようだ。


 (初出:『水絵具の村――信濃追分旅のモザイク』[高原の詩人たち]より改題改稿 新書館1981年刊)