大きな数と小さな数

yt0765432014-03-03

 大きな数といっても、「兆」以上になじみのなかった国民が、その10000倍の単位、京をはっきりと認識したのが、福島第一原発放射能洩れ事故だった。
 京(テラ)ベクレル、といわれてもどれほどの多量さなのか、まるで見当がつかない。しかし、何のためにだかわからないが、京の上には、13もの大きな数の単位があるのである。




じょ(のぎへんに予)






恒河沙(こうがしゃ)
阿僧祇(あそうぎ)
那由他
不可思議
無量大数


 「那由他」は、むかし、物語の主人公の名に使ったことがあったが、語感優先で、大きさとは無関係だった。
 さて、小さな数には、分、厘、毛くらいまでは記憶にあると思うが、その下にさらに20の単位がある。いったい誰が考えて、何に使うのだろうか。











模糊
逡巡
須臾
瞬息
弾指
刹那
六徳




 「模糊」は、曖昧模糊を想像させる。朦朧として、訳が分からなくなってくるくらいの小ささなのだろうか。そして逡巡する。「須臾」は極めて短い時間と云う意味で、

2012年9月28日のブログ
広津里香『死が美しいなんてだれが言った』と『蝶の町』
http://d.hatena.ne.jp/yt076543/20120928
のなかで、広津里香の父君萬里氏が「時にこの残忍な災厄、須臾(しゅゆ)にしてあなたはこの地上を去った。……風のように駆け抜けて、手をさしのべるいとまもなく、あなたは逝った。」と29歳で夭折した娘を追悼している。

 そして、小さくなればなるほど虚空清浄になってくるらしい。
 とすると、「無量大数」は清浄とは対極にあるのだろう。縁のないことは幸いなり。