大きな数と小さな数
大きな数といっても、「兆」以上になじみのなかった国民が、その10000倍の単位、京をはっきりと認識したのが、福島第一原発の放射能洩れ事故だった。
京(テラ)ベクレル、といわれてもどれほどの多量さなのか、まるで見当がつかない。しかし、何のためにだかわからないが、京の上には、13もの大きな数の単位があるのである。
京
垓
じょ(のぎへんに予)
穣
溝
澗
正
載
極
恒河沙(こうがしゃ)
阿僧祇(あそうぎ)
那由他
不可思議
無量大数
「那由他」は、むかし、物語の主人公の名に使ったことがあったが、語感優先で、大きさとは無関係だった。
さて、小さな数には、分、厘、毛くらいまでは記憶にあると思うが、その下にさらに20の単位がある。いったい誰が考えて、何に使うのだろうか。
糸
忽
微
繊
紗
塵
挨
渺
漠
模糊
逡巡
須臾
瞬息
弾指
刹那
六徳
虚
空
清
浄
「模糊」は、曖昧模糊を想像させる。朦朧として、訳が分からなくなってくるくらいの小ささなのだろうか。そして逡巡する。「須臾」は極めて短い時間と云う意味で、
2012年9月28日のブログ
広津里香『死が美しいなんてだれが言った』と『蝶の町』
http://d.hatena.ne.jp/yt076543/20120928
のなかで、広津里香の父君萬里氏が「時にこの残忍な災厄、須臾(しゅゆ)にしてあなたはこの地上を去った。……風のように駆け抜けて、手をさしのべるいとまもなく、あなたは逝った。」と29歳で夭折した娘を追悼している。
そして、小さくなればなるほど虚空清浄になってくるらしい。
とすると、「無量大数」は清浄とは対極にあるのだろう。縁のないことは幸いなり。