散逸物語うたのしるべ

 『散逸物語の研究––平安鎌倉時代編』小木喬著、笠間書院刊。定価9500円。厚さ6cmの函入りの大冊。神田小川町にオフィスのあった頃、神保町の西秋書店で購めた。まだ売れていない、今日もまだ、と毎日確かめながら、ようやく手に入れた時は、どんなに嬉しかったことか。
 平安時代紫式部によって『源氏物語』が書かれたあとに、その人気にあやかってか、室町時代にかけて亜流の物語が次々と生まれた。『夜半の寝覚』『浜松中納言物語』『とりかへばや物語』『狭衣物語』『葉月物語』など、内容が判明しているもののほかに、名のみ残って散逸してしまった数々の物語があった。物語の全容がわからなくても、その存在とおおよそのプロットがわかるのは、物語のなかの贈答歌が、『無名草子』や『風葉和歌集』などの文献に、切れ切れに垣間見ることができるからである。たとえば、「夢ゆゑ物思ふ」は、『風葉和歌集』に、あめわかみこと中宮の返歌が三首掲載されている。
 
                   夢ゆゑ物思ふのあめわかみこ
  哀とは思ひ出じや人しれぬ夢のかよひぢあとたえぬとも         
     御かへし          中宮
  これやさはかぎりなるらんうば玉のよなよなみえし夢のかよひぢ

     御かへし          夢ゆゑ物思ふのあめわかみこ
  数ならぬ身には雲ゐの藤の花こころの松もいかがしるべき


 中世小説に「天稚彦物語」というものが二種ある。一つは異類の求婚・天空遍歴から成る七夕由来譚、もう一つは、天稚彦と人間の恋愛談であり、後者が「夢ゆゑ物思ふ」の改作であると言われている。


 ランダムに失われた作品のタイトルを書き出してみると、なんと想像力をかき立てる魅力的な物語群だろうか。 


   あさくら山
   さとのしるべ
   四季
   しらら
   しづくに濁る
   しのびね
   末路の露
   玉藻に遊ぶ権大納言
   露のやどり
   せりかは
   はこやの刀自
   扇ながし
   みづからくゆる
   むぐらのやど
   山吹
   水あさみ
   闇のうつつ
   みかはにさける
   みなせ川
   水あさみ
   夢ゆゑ物思ふ
   よそふる恋の一巻
   夢路にまどふ
   緒絶えの沼
   網代
   流れてはやきあすか川


 1989年の初の「豆本と装丁展」の折に、神保町の檜画廊の向かって左側のウィンドウに飾ったのが、この物語の中から撰んだ題名と和歌を折本に仕立てたものである。絵を私が描き、父に毛筆で文字を書いてもらった。『流れてはやきあすか川』は、試みに薄みどりの紙に書いた文字が残っていて、その流麗な筆使いに、肉親ながらほれぼれとしたものだった。翻訳絵本のタイトルのレタリングも描いていたので、書家の感覚ではなく、デザイナーとしての緩急のリズムが絶妙であった。留め、撥ね、文字の大小、ストロークの変化も自在にできたようである。
 字の上手さと人格とは必ずしも正比例しないが、試し書きでも捨てられないし、何となく尊敬の念をいだいてしまう。父は絵も文字も独学だったが、何事も徹底的に極め、決して途中で投げ出すということがなかった。思想信条も終生変えることなく、三省堂地下レストランのランチの時間は、毎日政局の話ばかりだった。しかし、人前では自分の能力をひけらかすことはなく、雇われずして仕事ができるのが嬉しくてたまらない様子だった。
 美しい文字というと、すぐに思い浮かぶのは三島由紀夫だが、原稿の実物を見たことはない。松永伍一さんの400字詰め原稿用紙に書かれた文字をそのまま横長の紙面に原寸で印刷し、伴颺さんの絵と共に函入豪華版詩画集『道祖神、その幻聴』を作ったことがあった。出版記念会で著者のお二人とお話したが、事前に拝見していたその文字は、三島の一糸乱れぬ優美さよりも、もう少し生真面目で硬質な美しさであった。そして、久世光彦さんの文字は、戴いた書簡が手許に残っているが、「僕はあの字で耽美的な文章を書くと自分に酔ってしまうから、ワープロで書くんだよ」とおっしゃっていたように、うっとりするような華麗で勢いのある文字であった。コンピュータは使えないからと、買い貯めておかれたインクリボンを、おそらく使い切ることなく、突然逝かれてしまった。出典のわからなかった漢詩を『和漢朗詠集』に収録されていることを教えてくださったのも、久世さんだった。
 『散逸物語うたのしるべ』は、奉書紙を使った既成の折本に文字を書き、絵の部分は和紙の色紙を貼り、表紙は、新宿に束の間在った和紙の店「ももよ草」で購めた、土佐の紫の濃淡の斑(むら)染め縮み和紙でくるんだ。制作は1979年。天地122×左右90ミリ。最初の個展の本はまだ稚拙で、大きさもバラバラだったが、次の毎日ギャラリーでは、背面に鏡を貼ったアクリルケースを設計して、中に飾る本はおのずから8センチ前後に落ち着くようになった。