津村信夫「荒地野菊」と恢復(コンパレツサンス) の力

yt0765432014-02-26

    ――嘗てはミルキイ・ウヱイと呼ばれし少女に――
  指呼すれば、国境はひとすぢの白い流れ。
  高原を走る夏期電車の窓で、
  貴女は小さな扇を開いた。


 津村信夫の詩は「ミルキイ・ウヱイ」とひそかに呼んだ少女、内池省子との出会いと訣れからはじまる。昭和六年、慶応大学の学生だった信夫は、日比谷の舞踏会ではじめてミルキイ・ウエイと顔を合わせる。
 同年夏、避暑地の沓掛(現・中軽井沢)で二人は再会し、浅間牧場へ遊ぶなど楽しい日々を過ごした。しかしわずか一年ののちに、省子の突然の婚約によって、交際は一方的に断ち切られてしまった。その短かった日々は、いくつかの詩編と小品「みるきい・うゑい傳説」「火山灰」で読むことができる。 それらは「さらば、束の間の夏の強き光よ」と書かれているように、儚い恋愛のかたみでもあったのだ。
 のどかに高原を走るおもちゃのような電車と、扇の陰の美しい少女。信夫の初期の詩は、どれもこの情景のようにすがすがしい清らかさが漂っている。
 信夫は神戸に生まれ、法学博士でドイツ的精神の父と、夢見がちで文学好きの母、そして兄や姉の間で、誰にでも好かれる快活な少年だった。家族に寄せる愛情は殊に深く、処女詩集『愛する神の歌』は、夭折した姉道子に捧げたものであったし、第二詩集『父のゐる庭』は、庭が好きだった父への追慕と鎮魂のうたであった。
 そういう素直な青年が、生涯でただ一度、父と母を向うにまわして意志を貫いたのは、信濃乙女小山昌子との結婚を決意した時だった。昭和九年の夏、信夫は卒業論文を書くために沓掛の観翠楼に滞在、そこへ長野から手伝いに来ていたのが昌子だった。


  その橋は、まこと、ながかりきと、
  旅終りては、人にも告げむ、
  
  雨ながら我が見しものは、
  戸倉の灯か、上山田の温泉(いでゆ)か、

  
  若き日よ、橋を渡りて、
  千曲川、汝が水は冷たからむと、
  忘るべきは、すべて忘れはてにき。


 長野の昌子のもとに通う、信越線車中からのこの雨に煙る風景は、まだ許されぬ恋のさなかにあった信夫の胸に、どんなに切なく、またどんなに深く沁み入ったことだろう。 
 二年後の昭和十一年、信夫の熱情と真意、そして一家ぐるみで交際のあった室生犀星の口添えによって、二人の結婚はようやく実現する。
 信夫が 「マリア」と呼んでいた昌子は、ミルキイ・ウエイとはまったく違うタイプの少女だったらしい。彼は昭和十年の日誌に、「マリアに余は常に真実を見る。余はこの真実を最も愛するなり」と書きしるしている。昌子と知り合った頃から、彼の詩は次第に変化を見せはじめる。『愛する神の歌』の優雅な抒情は、『父のゐる庭』 に至ってはすっかり影をひそめ、「其処にはこの国の美と静かさに身を沈めた、詩人の安らひをはつきりと見る事ができた」と、野村英夫が「山のトロル――津村信夫論ノート」で述べているように、より素朴な、より日本的な美しさを求めるようになっていた。いかにも避暑地らしい異国的な軽井沢よりも、日本の田舎らしい信濃追分を愛して、さらに結婚の前後から山深い戸隠の村に幾度も足を運んでいた。

 詩「荒地野菊」と小説「荒地野菊」は、ともに追分の村ぐらしの所産である。とすれば、この花は夏の追分に咲いていたものに違いない。しかし思い返しても、ゆうすげの黄や桔梗の紫に眼を奪われて、あるいは咲いていたかもしれないのに、かつて一度たりとも荒地野菊を探そうとしたことはなかった。


……そして、若い婦人は静かに後を振りかへつてゐた。口もとに静かな、微笑を湛えて、「間違ってゐたら御免なさいね。あの、荒地野菊と云ふのぢやなくつて、小さい時、私達はそんな風に呼んでゐたと思つたわ」
 婦人は、娘さんの手にしている野の花を、ぢつと眺めてゐた。
「荒地野菊、いやそれで結構、それに相応しい」
 先生は感心したやうに云つた。そして私の場合は、その幾倍か感じ入るものがあつた。                             
 小品「荒地野菊」のなかで、主人公は、同宿のドイツ語の先生と近隣の娘さん、脇本陣に泊まっている若い婦人と追分の草むらの中を歩いていく。


……歩き出すと、明るい午後の陽射しは、まだ少し汗ばむ位だつた。そして、その美しい陽射しの中には、何か人間の心に、恢復(コンパレツサンス) の力を興へるものがあつたらしい。その上、娘さんの方は至極快活である。その快活に先生も感染した。私も感染した。


 このひとくだりに、恢復したての私も深く感じ入るものがあった。路傍にこぼれ咲いた野の花は、 どれほど地味であろうとも、午後の陽射しのように、どんな苦難にも屈しない強靱さとあたたかい恢復の力を感じさせるからである。
「待つことを覚えなければならない 辛抱つよくあらねばならない
 恢復期にエネルギーが湧いてくる」
 という結城信一さんが好んだボナールの言葉が、ふっと浮かんでくるようだ。


 (初出:『水絵具の村――信濃追分旅のモザイク』[高原の詩人たち]より改題改稿 新書館1981年刊)