「舞踏会の手帖」と扇ことば

 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督のフランス映画「舞踏会の手帖」(1937年)に、主人公クリスティーヌ(マリー・ベル)が36歳の若さで未亡人となり、湖畔の古城の暖炉の前で、夫の遺品を整理していたとき、するりと鉛筆の付いた小さな手帖が床に落ちる場面がある。16歳の時のはじめての舞踏会で、ワルツを申し込んだ十人の若者たちの名前が書かれた「舞踏会の手帖」だった。頁をめくるうちに、ふとクリスティーヌはその男たちを訪ねる旅に出ようと思いつく。
 かつての若者たちは、クリスティーヌの婚約を聞いて自死したジョルジョ、ヴェルレーヌの詩を諳誦した文学青年ピエールは、キャバレーのオーナー兼泥棒に身を持ち崩していた。今は神父になっているピアニストだったアラン、詩人気取りだったエリックはアルプスのガイドになっている。政治家志望だったフランソワは、田舎町の町長となり、女中を後妻に迎える結婚式の真最中だった。精神障害の発作に悩む医者のティエリー、美容師となったファビヤン。クリスティーヌは彼と一緒にはじめての場所と同じ舞踏会に出かけ、二十年前の自分を彷彿とさせる少女に出会って郷愁を覚える。モスリンのカーテン、シャンデリアの輝き、燭台、蝶のように舞う大きな花飾りの付いた純白のドレス、扇の影で囁いた唇、すベては同じはずなのに、小さく安っぽい会場の装飾や雰囲気に、クリスティーヌは自分の記憶のなかの夢のような思い出とのあまりの落差にがっかりするのだった。
 旅を終えたクリスティーヌに、むかし恋して消息のわからなかったジェラールが、湖の対岸に住んでいると執事が報告する。そこを訪ねると、ジェラールは一週間前に亡くなったと、忘れ形見の息子ジャックが告げる。クリスティーヌは彼を養子に迎えようと決意する。やがてジャックの最初の舞踏会の日に、「少し緊張するでしょう。はじめての煙草の時くらいに」と彼女は微笑んで送り出すのだった。
 「舞踏会の手帖」には、ダンスを申し込む名前を書くための筆記具が付いている。アンティーク市で見かけるものの中には、アールヌーヴォー装飾の銀や真鍮製の表紙に、切取り線の付いた本文紙、鉛筆やペンを差すことで蝶番のように本文を留める構造になっているものが多い。購めたものの一冊は、アールヌーヴォー風の女性の横顔の浮き出しに、本文紙が挟み込まれているが、切取り線もそのままに未使用であった。もうひとつは、黒檀に象嵌螺鈿の花模様のある華麗な表紙に、 象牙の薄い四枚の板が綴じられていて、単語帳のように横に開く。この板には、文字の書かれた痕跡があり、消し具で文字を消しながら使っていたようだ。舞踏会では、女性はこの手帖を紐や鎖で腰や指に付けた。18〜19世紀の貴婦人は、シャトレーンと呼ばれるチェーンストラップに、裁縫道具や櫛やミニアチュールなどを腰ベルトからぶら下げていた。
 舞踏会と言えば扇。「扇ことば」というのは、スペイン起源の舞踏会での扇を使った男女間の無言のサインである。二人きりになれなかった頃の恋人たちが、遠くから暗号のように意思疎通をはかったとみられる。2014年の夏のムサビオープンセミナーで、『Words of Fans』 (扇ことば) の豆本を作った。本文は、見開きに扇を使った仕草と、楕円の飾り罫の中にその意味を解説してある。青緑の表紙にタリーカードに描かれた扇を持ったシルエットの女性をあしらい、半円の函に入れる仕組み。函には、レースの扇の骨に沿って放射状に五人の貴婦人が並んでいる。函=天地85×左右92ミリ