あなたは雪のニンフじゃない、アンプロンプチュだ。

yt0765432010-12-26

 『草入水晶』というシュティフターを思わせる透き通るような書名に惹かれて、神田の八木書店の棚から引出した本。龍野咲人の『草入水晶』は、昭和22年から24年にかけて、雑誌「高原」5号から10号(終刊号)まで連載された小説である。単行本は古沢岩美の装画で、昭和31年に甲陽書房から刊行されている。
 作者の分身とおぼしき詩人塩田と、夏の軽井沢で知り合った牝鹿のような折江。敗戦直後の過酷な状況の中で、生活能力のない主人公は、幼い娘と身重の妻を抱えて、将来にも才能にも何ひとつ希望を見出せずにいた。……敗戦を喜びで迎えるようなことをいう人も、疲れていた。敗戦の灰の中でフェニックスのようなことをいう人も、悲しみにやつれていた。敗戦を解放だと受取ったとしても、深いデカダンスの空気があった。……
 そこにあらわれた折江は、白いスーツでりりしく身を引き締めた、若いしなやかな鹿のようにまばゆい存在だった。ほかのことでは、つつましくむしろ地味でさえあった折江だが、ただひとつ贅沢だったのが香水である。三笠へ紅葉を観に行った日、旧軽駅から高原電車(昭和37年まで軽井沢〜草津間を走っていた草軽電鉄)にひらりと跳び乗った折江の身体からただよう、うつくしい生命の香り。それがリュシアン・ルロン社のアンプロンプチュだった。折江の姿が鹿のようであっても、その香りは麝香(ムスク)のように濃厚ではなく、その名のようにかろやかで優雅、即興的な香りである。リュシアン・ルロンはプレタポルテの先駆者で、クリスチャン・ディオールユベール・ド・ジバンシーピエール・バルマンを育てたデザイナーとしても知られる。
 妻子持ちの貧しい詩人が、折江の厳格な父親から認められる可能性などは微塵もなく、逢瀬を重ねながらも、訣れは刻々とせまっていた。兎狩りに行った雪の日の朝、永遠=アイオーンとギリシャ語で雪の上に落書きした塩田は、存在さえもはかない自分たちの恋が泡雪のようなものであり、雪の上の文字と同じく遠からず消えてゆくことをはじめから知り抜いていたのだろう。「オクタ−ヴィヤ−」と娘を呼ぶ外国婦人に、「きれいね、音階の名をつけるなんて」と感歎する折江。折江は、ピアノを弾くのがとても好きだった。

 ……花の唇でやさしく接吻しようとして唇を近よせると、恋しいものも向うから近づいてくる。だが、遂げ得たと思ったしゅんかん、唇に冷たい拒絶を感じて、世にないものに逃げられてしまう。(中略)美青年の水仙は、恋しさのあまり、この虚しいことを繰返さないわけにはいかない。そしてついに、手にさわれば無くていて、実はほんとうの有るものの底へ、死んでいくのだ。……
 水仙の由来について塩田が調べながら逗留している駅前旅館に、だしぬけに折江が訪ねてくる。折江は東京へ帰らず、別荘で冬越しをしていた。氷池に折江を誘う。
「あたしの身体、雪のにおいがするでしょう。」
「なぜ?」
「来るとき、雪が降っていたんです。」
それに返したのが、表題の言葉である。

 途中の小径におしかぶさった崖が凍てつき、青味を帯びて見えている。水が鉱物であるしるしなのか、氷の圧力に飲みこまれてしまい、全身ひっそり澄みとおらしている羊歯類の葉の映りなのだろうか。琥珀のなかに閉じ込められた虫のように。 ……まるで草入水晶だ。こんな時代は、社会ヘ飛び出して悲哀と疲労とで自分の生を滅茶苦茶にすりへらしてしまうか、人間が草入水晶となって深く澄みとおるのを見届けるかするよりほかなかった。…… 美しいものよりも、まず食べてゆくこと、という敗戦後の閉塞的な状況は、現代の世相と酷似しているが、その後の飛躍的な高度成長のような未来図を、今は描くことができない。
 折江から婚約を告げられ、塩田は、すべてを忘れるかのように和紙を染める。ヤマナシの淡卵色、カエデの赤、朴の鶸萌黄、山ザクラの紅色、辛夷のあざやかな新緑。夢深い染めの時間だった。しかし夢間の風のようにふたたび現実が吹き入ってくる。
 思い余って塩田はある夜、梯子をかけて別荘の二階の折江の部屋に忍び込んだ。闇のなかに甘美に香る、アンプロンプチュ。翌朝、梯子がはずれて塩田はそこから出ることが出来なくなった。折江の父はそれを察し、二日後に東京に発つ予定をすぐに実行するよう命じた。数日後に戻ってきた折江は、新鮮な果汁を、朦朧とした塩田の口に含ませてくれた。それが折江の顔を見た最後になった。
 ……処女座のスピカのように、それきり折江はすぅっと別れていった。今となっては、彼女のありかをたずねていっても、おそらく樅かなんかの根もとに、小さな思惟のかたちをした仏像が石にきざまれているくらいにしか過ぎまい。……
 妻を実家に連れ戻され、一人になった塩田に数学教師の話があった。職を得て赴任した塩田は、折江の面影に肖た女生徒小山椿と出会う。しかし蠢惑的な椿は折江の気品には及ぶべくもなく、あらぬ噂も立てられ、塩田は三ヶ月で退職してしまう。
 外交官に嫁いだ折江から久しぶりに手紙が届いた。
「冬になったら、あなたについて詩を学ぶおゆるしが出そうでございます」という一節を読んだ塩田は、かつて折江が鹿のようにうつくしかった頃、「もうしばらく我慢してください」と繰り返していた言葉と同義に聞いた。

 昭和21年に雑誌「高原」(鳳文書林刊)が発刊された時、当時としてはすこぶる高価だったのにもかかわらず、またたく間に売り切れたという。美しいものや知性への渇望、抑圧から一気に解き放たれた時代だった。堀辰雄、片山敏彦、山室静という編者の名も大いに魅力的だったことだろう。中村真一郎の「死の影の下に」、福永武彦の「塔」、原民喜の「雲の裂け目」などが載ったのも「高原」だった。のちに単独舎から350部限定で全冊が復刻された時もまた、すこぶる高価であった。
 単行本『草入水晶』を取り出した時、諏訪の甲陽書房から刊行されていたことにあらためて気づいた。神田のオフィスに通っていた頃、たびたび仕事をご一緒した東京甲陽書房社主の父君が、諏訪甲陽書房の版元石井計記氏であった。数年前、ある詩集の装丁のために著者とお会いした時、「龍野咲人先生は、私の詩の師匠です」と言われたこともあった。雪が降るのを「天使の羽が抜け変わる」というけれど、その抜けた白い羽毛の乱舞のような重なりのなかを、一羽の鳥が舞い上がっているデザインである。龍野氏はすでに故人だが、仮にこのような悲恋が事実にもとづいていたとしても、雪のなかを高く勁く飛翔する小鳥のように、その後を生き抜かれたことと思う。