芥川賞辞退の高木卓と『むらさき物語』

yt0765432011-02-19

 「紫匂う王朝の愛の夢! 高木卓は、芥川賞を受けとらなかったただ一人の人である」と帯と袖に書いてあったら、もうその本は買わずにはいられない。
 大伴家持を描いた「歌と門の楯」で、太宰治が欲しくてたまらなかった芥川賞を、1940年上半期(昭和15年/第11回)に受賞したものの、高木卓は、みずから辞退した。菊池寛は「それなら発表しなければいい」と不快だったそうだ。同時候補に上がっていた同人誌 「作家精神」の先輩に譲ったとも言われているが、二日間考慮して、というその二日間の逡巡と葛藤、心理の推移の方にむしろ興味がある。先輩櫻田常久は翌12回に受賞し、前回の経緯を公表したが、本人が沈黙しているので、真相はあきらかではない。
 第34回、あっさりと在学中に賞を手にした者もいる。選考委員のひとり、佐藤春夫は優れた詩人だった。その彼が否、と言ったならその言葉の方を尊重したい。賛成派の船橋聖一と、新聞紙上で激しい応酬が続いたが、皮肉にもそれが若者の名を知らしめることになってしまった。このときの、佐藤春夫船橋聖一に対する敗北は、歴史的な屈服であると思う。十人の選考委員のなかで、この小説をほめているものは誰もいない。そのかつての若者は、いまある力を持って庶民の上に君臨している。受賞するほどの作品であったかどうかはともかく、佐藤春夫船橋聖一のどちらの作品が今残っているかを考えれば、ひとつの指針になるかもしれない。
 高木卓は、幸田露伴の妹のヴァイオリニスト安藤幸の息子で、歴史小説を多く書いている。菊池寛の不敬をかってか、芥川賞辞退ののちは不遇で、無冠だった。東大のドイツ語の教師をしながら、小説を書き続けた。『平安朝物語』(五月書房刊)『むらさき物語』(雲井書店刊)は、シェイクスピアの『十二夜』や『お気に召すまま』、ゴーティエの『モーパン嬢』、平安朝後期の『とりかへばや物語』『有明の別れ』、手塚治虫の『リボンの騎士』の系列の甘美な作品。
 『とりかへばや物語』の女の子はりりしく活発で男装を好み、男の子はなよやかで、室内に居て女装を好んだ。父権大納言は、「とりかへばや(取り替えたい)」と嘆いた。歌舞伎と宝塚がミックスしたような世界である。この物語を下敷きに、高木卓は、もっとメンタリーに、もっとドラマティックに「新とりかへばや」を書いた。『平安朝物語』は、二人の幼少から二十歳まで、『むらさき物語』がその続編となる。
 兄三条公美(きんよし)は男装の美少女、妹玲子(きよらけいこ)は女装の美少年。倒錯した世界を描いてなお高雅であるためには、女装の妹玲子は脇役にして、男装の兄公美を主人公にしなくてはならない。女性でありながら、公達に立ち混じって何もかも優れている公美は、御簾(みす)の内の女官たちの憧れの的である。
 蹴鞠試合の衝突で、主上(今上帝)と肌が触れあってから、次第に思慕が募り、二十歳が近づくにつれて、玲子と「替わりたい」と思うようになる。妻章子(あきらけいこ)とは当然ながら名ばかりの夫婦で、子供二人の実父は、友卿嵯峨大将である。彼はいくさで敵矢を受けた公美の昏倒時にその秘密を知ってしまい、以来執拗に言い寄ってくる。一方、帝の姉の先帝に仕えている玲子も、いつのまにかあやしい成行きになっている。
 公美は中納言から大納言に昇進し、玲子は加階によって従二位となり、将来の中宮の地位が約束されている。女装の妹が入内することはありえない。内親王を産んだ従姉妹たちも入内しており、決して薔薇色の道ではないが、公美が本来の姿に戻る時を予感させて物語は終わる。男装の麗人が女性に移行するのはたやすいが、その逆の玲子は、宮廷が貴族の階級社会であり野望の舞台であった時代では、綿密な打合わせと心支度が必要だろう。

 有職故実の知識に精通した、服飾描写の数々。銀繍を施した礼服や、直衣(のうし)、狩衣(かりぎぬ)、水干(すいかん)、指貫(さしぬき)、布地の文様の立涌紋(たてわくもん)、浮線陵(ふせんりょう)、臥蝶(ふせちょう)、花菱七宝紋、色は二藍、萌黄、縹(はなだ)、蘇芳(すおう)…。表と裏の布地の色と透け感を愉しむ「重ねの色目」、「匂(におい)」と呼ばれる同系色のグラデーションや季節の取りあわせを演出する「襲(かさね)の色目」、その意匠、素材、コーディネートのあでやかさ。本文紙に活版の圧が食いこんだモノクロの紙面から、華麗な世界と絢爛の色彩が匂い立つ。
 女性の正装の十二単(小袖 、長袴、単、打衣、五衣、表着、唐衣、裳)の着付のプロセスは、一度見学したことがあった。もちろん日常着ではないが、あれほどに衣を重ね、夜は函に入れる重い黒髪を持っていたら、女性は室内で膝移動するしかないだろう。『源氏物語』の中で浮舟がいちばん好きなのは、絵巻の顔が愛らしいばかりでなく、この長大な物語でただひとり、自分の足で邸から遁走した姫君だからである。
 桜、柳、楓、松、を四隅に植えたかかり場(球場)で、鹿革を縫い合わせた鞠を蹴りあげる下鴨神社の蹴鞠、流水のほとりで笹舟の流れ着くまでに歌を詠む城南宮の曲水宴(きょくすいのうたげ)も、詩と古典に惑溺していた頃に見に行った。自分で王朝物語の掌編を書き、和綴にして、マッチ箱に入れた本を作っていた頃だ。
 鴨沓(かもぐつ)の甲でポンと音高く蹴りあげられた軽い鞠は、縦長のやわらかい放物線を描いて、ゆるやかに回転しながら紙風船のように落ちてくる。時差を経て戻ってきた鞠のように、むかし勉強した服飾や色彩や文様が、この本を再読することで、明眸うるわしい男装の若公卿の姿になって、ふたたび妖しく艶麗に立ちかえってくる。若い日の脳が柔軟に吸収した読書の記憶。二度惚れをして、この本の選択に間違いがなかったことを知る。