中河与一『天の夕顔』と三つの灯り

yt0765432013-09-17

 この夏は、青山の展覧会の直後、緊急搬送され、約2ヶ月を代々木の病院で過ごした。痛みに加えて、取材や講習や仕事、応えられぬことばかり、何もしない日々が続いた。5回目に替わった最後の部屋の頃は、もう杖で歩くことができた。大部屋の西側に大きな窓があり、小田急線が走っていた。新宿からふたつめが参宮橋。かつての勤務先と東京乗馬倶楽部のあるところだ、と線路の先を懐かしく思った。ある夜、その窓の側で、看護師さんと窓際の患者さんが、「花火…!」と言っているのが聴こえた。神宮外苑で花火を打ち上げているようだ。ポンポンと弾ける音が響いた。 かすかに見える程度らしかったので、確かめには行かなかったが、昨年書いたこの一文が脳裏をよぎった。

        *            *            *

 少しもの寂しい会食のあとに、灯りのともった神田すずらん通りの外燈の下を通ったときのこと、後ろに長く延びていた二人の影が、その瞬間、くるりと前に裏返った。この情景の既視感は何だったろう、と思いめぐらすと、旧い読書の記憶が浮かび上がった。
 中河与一の小説『天の夕顔』のなかには、印象深い三つの灯りの描写がある。
 第一章、最初の灯りは、主人公が想いを寄せている夫人と、夕刻、阪神電車大石駅まで送る道のほとりの、ガス燈の人工の灯りである。
 ……ボーッとガス燈のともっている前へゆくたびに、後ろにあった二人の影が、急に早回りすると、それが急に前に倒れ、足もとから、真っ黒に延びて行ったのをハッキリ記憶しています。……
 それは人生のターニングポイント、運命の転換期を象徴しているのではあるまいか、と若かった私は、まだ人生にどれほどの経験もなかったのに、読みながら考えたことを思い起こした。
 だが、本を読み返してみると、それは、もう会わないと伝えにきた夫人を駅まで送ってゆく夕刻であり、物語のほんのはじまりの頃に出てくる場面だった。とすると、これはこれからの運命の予兆のようなものだったのかもしれない。
 『天の夕顔』の主人公とこの世の細道を歩いていた和服の夫人は、たがいに、どれほど心と心で結ばれ、魂ふかく愛し合っていても、地上では決して得ることのできない、七歳年上の人妻であった。戦前の昭和十三年に発表されたその時代と今とでは、街の風景も、灯りも闇も、倫理観も、まったく違っていたことだろう。
 はじめて出会った二十一歳の学生のときから、ほんの数えるほどの逢瀬と手紙の交換しかないのに、その思いの濃密さが、淡々とした筆致で描かれている。夫人の深遠で情熱を含んだ静かな強さ、低いアルトの声、与謝野晶子にロセッテイの描く女を思わせた容貌が、主人公の心を捉え続けた。
 ふたつめは、ある夕暮れ、薄暮のなかに浮かび上がった、それぞれに小さなランプシェードで装われたような白い夕顔の花を、夫人が若々しい指先でつと手折ったその場面。 彼女がその花を摘み取ると、夕闇がにわかに濃くなっていった。 夕顔は、今と違って本当の真闇があった時代に、花ひらくことでほのかにともる自然の灯りである。

 「夕顔」といえば、『源氏物語』の第四帖。 十七歳の光源氏が、乳母の見舞に行った五条大路のあたりを車のなかから見渡すと、近隣の家の軒に白い花が咲いている。従者に手折らせているとき、その家から出て来た小さな愛らしい少女が、これにのせてさし上げてくださいと扇をさし開く。香が焚きしめられ、流麗な文字の和歌が書かれている。
    心あてにそれかとぞ見る白露の
    光そへたる夕顔の花
 遇々この世で源氏の君に出会い、荒れた別邸で逢引した夜に、源氏の年上の愛人の生霊が現れ、花の精のように暁を待たずにあえなく夭折してしまうヒロインの名前でもある。夕顔は、ゆうべに咲いて朝(あした)に凋む一夜花であるために、儚いイメージに彩られている。


 三十歳を過ぎた頃、主人公は身辺整理をして一切を捨て、山に入り隠遁生活をする。そして、ストイックな思いを抱いたまま、知り合ってから二十余年の歳月が過ぎて、許された五年目の明日は会えるという日の前日に、手紙を残して夫人はみまかってしまうのだった。
 傷心の主人公は、彼女に消息をしようと思い立つ。花火師とともに野原に出て、天の彼女に届けよとばかりに、夕顔を花火として空に打ち上げる三つめの灯り。花火は炸裂し、一瞬、空に大輪の花を咲かせた。そしてふたたび昏く鎮まったときに、主人公は、天国で彼女が夕顔の花を摘み取ったのだと思うのだった。花火は、地上から天へと贈る光の花束であり、灯りの手紙である。
 「この狂熱の誤謬(ごびゅう)に似た生涯を、どうぞ笑って下さい」と主人公は自嘲気味に語るけれども、人生のすべてを棒に振ったように見えて、実は誰もあえてしない選択のゆえに、崇高な経験をしたのではないか。そして、生涯を捧げる対象に、短い一生で出会えない人さえもいるのに、その人に会えたということだけでも、幸福なのではないか。
 冒頭の現実の会食は、最後の会食であった。死が分かつ訣れではなかったが、この世で最後であれば、同じことかもしれなかった。 その後もすずらん燈の下を通るたび、影が裏返り、前に延びてゆく幻影は、影がひとつになってしまっても、長く燈芯のように残って消えることがなかった。

(初出:「かまくら春秋」2012年8月号)