プーシキン「バフチサライの泉」とザレマの愛の情熱

プーシキンバフチサライの泉」とザレマの愛の情熱


  かの泉、われと同じく
  訪れし人あまたありしが、
  今ははや世を去りしものあり、
  はるか遠くさまようものあり。
          サディ


 クリミア・ハン国は、ジンギス・ハーンの後裔と言われるハージー1世ギレイによって15世紀中頃に建国された。建国からロシア帝国併合に至る360年は、クリミア・ハン国にとって、侵略と介入と従属と独立の歴史である。黒海に面し、南にオスマン帝国、北にモスクワ大公国ポーランドに接し、最盛期には黒海北岸をドニエプル川下流域から北カフカスの一部まで支配する王国に成長した。
 その後クリミア・ハン国のハン位を独占したメングリ1世ギレイの男系子孫はみな名前の後半に「ギレイ」の名を冠したため、この王家は「ギレイ家」と通称されている。1532年、第15代サーヒブ1世ギレイはバフチサライに宮殿を築き、そこへ遷都した。第69代バハディル2世ギレイの治世を最後に、1783年、エカテリーナ2世によってロシア帝国に併合された。
 ロシアの作家アレクサンドル・プーシキンは、クリミア半島の旧都バフチサライの宮殿を訪れた時、「涙の泉」(Фонтан слёз) と呼ばれる噴水を見た。これは往時のクリミア・ハン国の汗が、思いを寄せていた異教徒の女奴隷の死を悼み、涙を流す噴水として作らせたものである。このときの見聞が、翌1821年から2年をかけて書いた600行から成る物語詩 「バフチサライの泉」に結実した。


  タタール人の歌

    一
『ひっきりなしの苦しみも、悲しみも
神の御心で救われましょう。悲しい年を重ねた老いた行者も
メッカを見ればしあわせなこと。

    二
 栄えあるドナウの岸辺を
死んで清める者はしあわせ−−
楽園のおとめがその者のもとへ
心からのほほえみを浮かべ飛んで来る。

    三
 でも、もっとしあわせなのはおお、ザレマよ、
安らかといとしさを愛し、
ハレムの静まりのなかで、愛らしき者よ、
おまえをバラのように愛撫してくれるその人よ』


 歌声は流れる。だがザレマはどこ?
愛の星、ハレムの美しい花は?−−
ああ、物悲しげに色青ざめて、
ほめ讃える声にも耳をかさぬ。
雷におしひしがれた棕櫚のように
その若き首を垂れていた。
何も何ひとつとして彼女の心に染まぬ、
ギレイはザレマを愛さなくなったのだ。


 彼は心変わりしたのだ!……だが誰がおまえに、
グルジヤの女よ、おまえの美しさにおよび得よう?
百合の花のように白い額には
垂れた髪が二重に巻きついている。
魅惑的なおまえの眼は
昼よりも明るく、夜よりも黒い。


 他の誰の情熱的な口づけが
おまえの毒ある接吻より生気にあふれているだろうか?
どうして、おまえにみたされた心が、
余人の美しさにときめくことがあろう?
しかし冷淡にして酷薄な男、
ギレイはおまえの美しさを軽んじた、
そしてあのポーランドの公女が
彼のハレムに幽閉されてこのかた
夜の冷やかな時を彼は
ひとり陰うつにすごしている。


 うら若いマリヤが異国(とっくに)の
空を仰ぎ見たのは先ごろのこと。
そのふるさとでしとやかに
美しく花咲いたのも先ごろのこと。


 ああ! バフチサライの宮殿は
年若い公女をかくまっている。
変化のない囚われの日々に枯れしぼみ、
マリヤは悲しみ涙に沈む。
この不幸な女をギレイはあわれむ−−
その憂うつ、涙、呻きの声は
汗の短き眠りを乱す。



 華やかな東の国の夜、また夜の
暗き美しさ、その快さ!
何と甘く夜の時は流れ行くことか、


 妃たちはみな眠る。眠らぬはただ一人。
息を殺し、彼女は立つ。
歩み行き、いらだつ手にて
戸を開き、夜の闇にまぎれて。


 ためらいつつ震える手が
忠実な錠前に触れた……
すると言い知れぬ恐怖が胸にしみ入る。
燈明のわびしい光、
悲しげな光を受けている壁龕、
いと浄き聖母のやさしきお顔、
そして愛の聖なる象徴たる十字架、


 彼女の前には公女が休らっていた、
そしておとめの眠りに彼女の頬は
生き生きと赤く染められ、
涙のあともなまなましいが、
ものうげな微笑みで照らし出されている。
まるで雨に痛めつけられた花が
月の光に照らされるように。
天空より飛来したエデンの子、
天使がここでいこい、夢うつつに
ハレムのあわれな囚われの娘に、
涙をふりそそいだようであった……


 その言葉、ふるまい、うめく声は
おとめの静かな眠りを破る。
公女はおそれをなして、目の前に
年若き見知らぬ女の姿を見る。
「あなたは誰?……ひとりでこの夜中に−−
ここに来たのはなぜ?」
−−私をたすけてください。私には残されていないのです
一つの望みのほかには、それが私の運命です……
       
 おそれも悲しみも今までは、
この私には縁なきことでありました。
私は安らかな静けさのうちにあって
ハレムのかげに花を咲かせました。
そして愛の最初の経験を
素直な心で待ち望んでおりました。
心に秘めた私の願いはかないました。
心騒がせ期待に満ちて汗の前に
私たちはまかり出ました。無言のうちに
その明るいまなざしを私にとめられて、
汗は私を呼ばれました……その時以来
私たちは絶え間なく歓喜にひたり
幸福にあふれていました。


 マリヤよ! 汗の前にあなたが現れた……
ああ、その時から汗の魂は
いまわしき物思いに曇らされた!
ギレイは心変わりする有様、
私の責める言葉も聞こうとせず、
昔の気持、昔の語り合いを
もう私には与えてはくださらない。
  

 しかし私は愛の情熱のために生まれた女、
私のように愛することはできますまい。
なぜに冷たい美しさをもって
あなたは弱い心をかき乱すのです?
ギレイは私に残しておいて、あの方は私のもの。
それなのにあなたに目がくらんでいる。
あの人を思いとどまらせて。
−−もしもやむを得ず
あなたを……となれば、私には短剣があるの、
私の生まれはコーカサスの近くだったの」
 こういうとふっと姿を消した。



 生きることの貴重な時は、
もはや過ぎ去り、もはやありはせぬ!
この世の荒野で何をなすことがあろう?
彼女の時が来り、天国が、
平和のふところがマリヤを待つ、
なつかしいほほえみでマリヤを召す。


 何日かの時が過ぎた。マリヤはもういない。
たちまちに、みなし児は眠りについた。
彼女は新しい天使として
久しく待ち望んでいた国を照らした。

 
 陰うつな宮殿はむなしくなった。
ギレイはふたたび宮殿をあとにした。
タタールの軍勢をともない、異国をめざし
凶暴な襲撃を加えるのだった。


 忘れ去られ、一顧だに与えられず、
ハレムはその主の顔を見ることもない。
妃たちの中に、久しき前よりグルジヤ女はいない。
物言わぬハレムの番人たちのために
水底深く沈められてしまった。
かの公女の死のあの夜に、
彼女の苦難の死も起こったのだ。
その罪がいかなるものであれ、
この仕置きはおそろしかった!


 コーカサスの近隣の国々や
平和なロシヤの村々を
戦火で荒らしつくし、
タウリーダに汗は立ち帰った。
いたましいマリヤの思い出に
うらさびしい宮殿の一隅に
大理石の噴水を作らせた。
その上にはマホメットの月が
十字架と組み合わされている
碑銘にいわく−−つらき年月をふれど
かの人の姿消えうせることなし、と。
異国の碑銘の文字のかなた、
大理石のうちに、水はさざめき、
冷たい涙のようにしたたり落ちる。


 この国のうら若きおとめたちは、
古き時代の昔語りを聞き知って、
この陰うつな記念碑のことを
「涙の泉」と名づけたのであった。


 忘却のうちにまどろめる宮殿を
私はバフチサライに訪ねた。
今にいたるもなお、逸楽の気がただよい、
水はたわむれ、バラは赤らみ、
ぶどうのつるはもつれ、
壁の上には金の光が輝く。
私は年ふりた格子を見た、
その華やかなりし時は、そのかなたで
琥珀の数珠をまさぐりながら  
静寂のうちに妃たちが溜息をついていた。


 あたりはすべて静か、すべて弱まり、
すべて変わりはてた……しかしその時
バラの香り、噴水のさざめきが、
思いがけぬ忘却へと私をいざない、
思わず知らず私の心は身をゆだねていた
すると飛び去る影のように宮殿の中を、
おとめが眼の前にちらつくのだった!……


 誰のやさしい人影が
その時私をつけてきたのか、
ぴったりとつきまとい、離れようともせずに。
マリヤの清らかな魂が
私の前に現れたのか、あるいは
ザレマが嫉妬をみなぎらして
荒れ果てたハレムを走り過ぎたのか?


 おお、美しいサルギルの岸辺よ、
ふたたび間もなくおまえと会えるのだ!
ひそかな思い出にみたされて
海にせまる山々の坂道へとおもむこう−−


 そこではすべてが生きている−−丘も森も、
琥珀やルビーのようなぶどうも、
谷間の居心地のよい美しさも、
水の流れも、ポプラの木陰の涼しさも……

 
 静かな朝の時刻、
山々の岸辺の道を通って旅人が
行き慣れた馬を走らせる時、
そして青み行く水が旅人の前に、
アユ=ダガの絶壁をめぐって
光り輝き、ひびきわたる時。


川端香男里訳 より抜粋)



 バレエではR ・ザハロフ振付、B・アサフィエフ作曲の全4幕ものが最も知られている。

プロローグ
バフチサライの泉のほとりでタタール王ギレイ汗がうなだれている。失意の彼の心の裡にあるものは…。
第1幕
ポーランド貴族の娘、マリア・ポトツキーの誕生舞踏会。
マリアは家族や婚約者と舞踏会を楽しんでいる。
そこへギレイ汗が率いるタタール軍が侵入。
マリアは父と婚約者を失い、ギレイ汗に連れ去られる。
第2幕
マリアの美しさに打たれたギレイは彼女を宮殿に伴う。
それまでギレイから一番愛されていた寵姫ザレマは衝撃を受け、失神する。
第3幕
バフチサライの宮殿で暮すようになった後も
マリアは故郷を偲び、ギレイに心を開くことはなかった。
マリアへの嫉妬で激情に駆られたザレマはマリアを刺し殺してしまう。
怒りのあまりギレイはザレマを手討ちにしようとするが、
ザレマの「愛する人に殺されるなら本望」との言葉に
ギレイは自らの手でザレマを処断することができずに終わる。
第4幕
ザレマが崖から突き落とされて処刑された後も、ギレイは鬱々した日々を送る。
バフチサライの泉に傍らで物思いにふける彼の脳裏からマリアやザレマの面影が消えることはない。