若松賤子とセドリックの怜朗*



 世界各国のさまざまな本を、私たちがいつでも自由に読むことが出来るのは、ひとえに多くの翻訳家のおかげであるといっていい。あらゆる分野で翻訳書が出版されている中で、女性翻訳家の占める割合は、近年確実に高くなっているように思われる。
 若松賤子(しずこ)は、その女性翻訳家の草分けともいえるひとである。しかし、彼女の訳した代表作『小公子』や『小公女』、作者のバーネット夫人のことは知っていても、賤子の名をすぐに思い出す人は、もう今ではごく稀になってしまったのではないだろうか。賤子の果たした役割は、最初の本格的な女性翻訳家というばかりでなく、その直前まで読まれていた児童ものが『鶴千代』や『牛若丸』であったことを思い合わせれば、西洋を舞台にした、自然でわかりやすい口語体の物語の紹介が、いかに新しく画期的なことだったかがわかるだろう。
 賤子は、幕末の元治元年(一八六四年)、現在の福島県会津若松に生まれた。本名は松川甲子(かし)。会津藩士の父は、単身赴任で藩の隠密のような仕事をしていたため、不在がちでほとんど会うことがなかった。明治三年に母が二十七歳の若さで病没した時に、妹と残された賤子は、まだ六歳の幼女だった。孤児となった松川甲子が、翻訳家若松賤子として華ひらくために、不可欠とも言えるふたつの重要な契機がある。
 ひとつは、ちょうどその頃商用で会津に来ていた、横浜の織物商山城屋の番頭大川甚兵衛の目に留まり、子どものいない大川家の養女となって、会津から横浜に移り住んだことである。養母おろくは、福島遊郭の遊女だった人で、賤子のしつけ一切を、米国人宣教師のミス・メリー・キダーの手に委ねた。彼女はそこでピューリタン的教育も同時に受け、明治十三年に受洗している。優れた語学力と明朗な人柄を愛され、卒業とともに切望されて母校(のちのフェリス女学院)の英語教師となった。
 横浜という風土が、賤子の豊かな感性をのびのびと育んだのにちがいなく、ペンネームとした生地会津若松にとどまっていたなら、あるいは若松賤子の誕生はなかったかもしれない。賤子の名は、「神の賤しきしもべ」という意味で、いかにも敬虔なクリスチャンらしい命名である。そしてまたこの時代には珍しく、賤子は自分自身の意志で恋愛結婚をしている。
 明治二十二年、彼女が夫として選んだのは、明治女学校の教頭でもあり、投稿していた「女学雑誌」の編集発行人でもあった巌本善治である。クリスチャンで文学的教養をそなえた、いわば「同志」である善治と結ばれたことは、作家賤子にとっては、実に幸福で賢明な選択であるといえるだろう。最高の理解者にあたたかく見守られて、つねに発表の場を持ち、短い期間ながらその才能を充分に伸ばすことができたからである。これがもうひとつの契機である。
 明治十九年、「女学雑誌」に、はじめて使う若松賤子の名で、文語体による鎌倉の紀行文を発表している。 
五月雨の晴れ間をぬって「鎌倉をみるとなむいへばいと事ふりたるやうなれど、流石は音に聞えし古しへの都なれば、其古跡 をも見ばやと望巳難く(やみがたく)」、友と連れ立って早朝の金沢の宿を発つ。

 入江の島に立ち込める雪のような霞、浜の塩焼きの煙、魚(いさ)とり舟の櫂の動きに連れて咲く浪の花、戯れる水鳥など、賤子の目にめずらしく映った風物が、みずみずしい筆致で綴られている。やがて、この日見た風光とくさぐさの想いを旅の土産に、おそらくふたたびは来ることのなかった鎌倉をあとにしたのである。

 賤子の最初の口語訳は、二十三年に発表したミス・プロクターの詩をもとにした翻案小説「忘れ形見」だった。同年には『小公子』の連載もはじめている。


  セドリツクは、門番の女が、取締を見たも同様な調子に、老侯を見て、ずツと側まで歩み寄りました。
 「あなたが侯爵さまですか? 僕はハヴイシヤムさんが連れて来た、あなたの孫ですよ、フォントルロイです。知つて入ツしやるでしやう?」
 と云つて、侯爵さまでも挨拶をするのが礼儀で、適当なことに違ひないと思ひ、手を伸べながら、又大層なれなれしく、
 「御機嫌は如何ですか、僕は今日あなたにお眼にかかつて、大変嬉しいンです。」
 といひました。


これは、アメリカで育った主人公セドリックが、渡英してはじめて、気難しい祖父の老侯爵と対面する場面である。一読して、さらに声にしてみて、百十年の星霜をみじんも感じさせないところに、賤子の斬新さとあふれる気概をみる思いがする。
当時名翻訳家としてその名を馳せ、「翻訳王」といわれていた森田思軒は、『小公子』に触れて、数年前に発表された二葉亭四迷の言文一致小説「浮雲」と双璧をなす、また、「二十年来第一の訳」とまで記して絶大な賛辞を惜しまなかった。
 天使のように清麗なうえに、愛嬌があって人なつこく、ものおじしないセドリックの姿は、老侯爵のかたくなな心を溶かすのにふさわしく、まさに賤子にとって理想の子供像であったにちがいない。しかし、それが単に遺伝のたまものということではなく、
 「是は両親(ふたおや)が互いに相愛し、相思い、相庇い、相譲る処を見習つて、自然と其風に、感化されたものと見え升(ます)。(中略)いつも寵愛され、柔和(やさし)く取扱かはれ升(まし)たから、其幼い心の中(うち)に、親切気と温 和な情とが充ち満ちて居り升た。例へば、父親(てておや)が母に対して、極物柔らかな言葉を用ゐるのを、自然と聞覚えて、自身にも其真似をする様になり、又父が母親を庇ひ、保護するのを見ては、自分も母の為に気遣ふ様になり升た。」
というくだりに余すところなく述べられているように、家庭での躾とは、両親がともに愛し庇いあう姿を見せるに尽きると、 賤子自身も、まさしくそのように考えていたのだと思う。夫婦や親子の関係が非常に希薄になっている現代にあって、この普遍の一文はひとしお胸に沁み入ってくるようである。

 わずか八年ほどの執筆期間にもかかわらず、賤子は「女学雑誌」や東北学院の英文雑誌「ジャパン・エヴァンヂェリスト」などを舞台に、五十数篇の創作、翻訳、翻案小説、詩、伝記、随筆などを精力的に発表し続けた。海外への日本の伝統・行事の紹介にもつとめ、欧米から来た女性の通訳としても活躍した。同時に女性解放、女性啓蒙にも力を注いだ。
 家庭人としては、病弱の身ながら一男二女を設けている。夫の理解が深かったとはいえ、家庭と仕事を両立し、その仕事がまったく新しい試みであったということは、百年前という時代を考えてみれば、驚嘆に値することかもしれない。
 賤子が華々しく活躍した頃は、女性の啓蒙誌から文学的色合いの濃くなっていった「女学雑誌」の絶頂期でもあった。
 石橋忍月、星野天知、北村透谷、平田禿木(とくぼく)など、寄稿者の大半は明治女学校の若い教師だったため、女生徒たちの憧憬の的だった。島崎藤村の本名は島崎英樹。年上の恋人佐藤輔子の一字をとって藤村と名乗った。その彼らが文芸誌「文学界」を創刊してそちらに移行していってからは、次第に精彩を欠くようになっていった。
 そんな中で、賤子の死は突然におとずれた。四度目の妊娠中の二十九年二月、寄宿舎の階下を借りていたパン屋からの出火によって、明治女学校は一瞬にして焼失してしまった。五日後に、賤子はそのショックと身体の衰弱のために、幼い子供たちに心を残しながらひとり旅立っていった。伝記は書かないように、墓には賤子とだけ記してほしいと言い残して。まだ三十二歳という若さであった。
 賤子より九ヶ月後に亡くなった樋口一葉も同様だが、この時代に意義ある仕事を成して、老いることなく逝った人々の、作品の命はなんと長いことだろうか。いま私たちはかつてない長寿を与えられながら、先人の業績をあたりまえのように享受しているだけである。そして、『小公子』を改めて読み返し、すべてが初めてであったその真新しく輝かしい瞬間に、せめて想いなりとも立ち戻りたいものだと、背筋を伸ばして身を引き締めることぐらいしかできないでいるのである。
 (初出:かまくら春秋社「季刊湘南文学」2001年春号 冒頭の絵と写真はいわさきちひろと若松賤子、赤い本はあかね書房版)