フォアレディースと寺山修司さんのこと

yt0765432012-08-21

 新書館の「フォアレディースシリーズ」に、寺山修司さんが選者だった「あなたの詩集」という、投稿少女たちの作品をアンソロジーにした本があった。私の詩が最初に載ったのは、第11集『鉛筆のシンデレラ』。「魚のヴァリエイション」という、寺山さん好みの、言葉遊びの一篇だった。


  鮫(さめ)たこころ
  鯛(たい)くつだ
  鰺(あじ)けない
  鱶(ふか)いかなしみ
  鮭(さけ)び
  鮎(あゆ)み
  鮃(ひらめ)き
  鯉(アムウル)!
  鱚(ベエゼ)!!


 フォアレディースシリーズという若い女性(少女)向けのシリーズが出ていたのは、1970年代がピークだった。宇野亜喜良さんの装丁とA5の定型の天地をカットした四角に近い変型判が斬新で、内容もどこか小悪魔的、当時の生活臭のあるジュニア小説とは一線を劃していた。この集には、のちに30年来のペンフレンドとなる京都在住の砂岸あろさんの「薔薇のカーニバル」も掲載されている。

 その後、寺山さんが責任編集のようなかたちの「ペーパームーン」というA4判の雑誌が刊行された。ぺーター佐藤さんのエアブラシを使ったお洒落な表紙絵だった。書店でその本を立ち読みしていたら、自分とそっくりなことを書いている人の文章が載っていた。(世の中には、同じようなことを書く人がいるものだ)と妙に納得して読み続けると、なんと、投稿した自分の文章だった。末尾に「とてもよかったから、また送ってね!」と書いてある。刷り上がって製本し、配本されてから知る時代だった。あわててその本を買った。原稿料も掲載誌送付もなかった。
 すぐに奮起して書いた少女と挿絵画家の物語「新月抄」は、「ペーパームーン」の別冊に掲載された。林静一さんの新月をバックにした大正ロマン風の少女の挿絵が眩しかった。寺山さんの序文は、「邑崎恵子さんの幻想譚は、手鏡にうつし出された前世の記憶を思わせます。上田秋成を祖父に、泉鏡花を叔父にもち、少女の黒髪たばねて書いた邑崎さんの物語は、私たちを生前の世界へと誘ってくれるのです。……」というもので、たぶん誰も信じないようなことを、ごく自然に、まことしやかに書く人だった。ペンネームはいくつかあったが、この名前は、 紫が好きだったのと、当時は多数派だった「子」が付く名前に憧れていたためだ。

 新書館は、投稿少女たちが編集部を訪問するのを厭わず、むしろ歓迎してくれているようだった。私は出版社に就職したばかりで、もう少女ともいえなかったが、高校生のときから投稿していたので、興味半分でアラベスク(唐草模様)のヴェランダのある千石の新書館のビルを訪ねて行った。自分で作った手製本や絵本を持っていったら、早速写真を撮られ、次号の「ペーパームーン」に「豆本に夢中の詩人」という一頁が出来上がっていた。内田善美さんと一緒に来ていらした、まだ無名の(?)荒俣宏さんと顔を合わせたこともあった。そのあと次々と出版されたニールセンやデュラックやラッカムの翻訳挿絵本の打ち合わせだったのかもしれない。
 翌年、フォアレディース賞というマイナーな賞を貰った。規定も応募も何もなく、数年に一度、寺山さんの気が向いた時に出すのである。だから当時も今も誰もほとんど知らないという、そのひそやかさが何とも気に入っていた。劇団天上桟敷で活躍し、岸田戯曲賞を受賞して早世した岸田理生さんは二代目の受賞者である。初代の伊東杏里さんは、毎日新聞社で開催した「小さな本と装丁本」の展覧会のときに、砂岸あろさんと揃って来て下さり、その時にはじめてお目にかかった。
 6年ぶり三回目のフォアレディース賞の発表があったのが、「あなたの詩集」第16集の『愛する時は歌う時』。寺山さんは「かつて吉屋信子がはたした役割を埋めるようなといったら、邑崎さんは気を悪くするかも知れない。しかし硝子絵のように透明で張りつめたロマネスクは一つの文学領域を思わせる。」と評して下さっている。
 ルミ・ド・グウルモン詩/上田敏訳の「立木の物語」を織り込んで、立葵の咲く夏の日に、宿命の糸に引かれて巡りあう美大生とモデルの少女との物語「七月の葵」である。この時の同時受賞者は、現在白百合女子大学教授の井辻朱美さんで、彼女は「詩を書く東大生」と言われ、早くから塚本邦雄に短歌の才能を見出されていて、ファンタジーの翻訳もひろく手がけ、本名のほかに、草薙汐美と言うペンネームも使っていた。
 賞金の代わりに、本を出してもらえることになった。その時、テーマとして選んだのが、通いつめては物語や詩やスケッチをかいていた信濃追分のエッセイと物語集だった。活版でもオフセットでもコスト的には変わらない時代だったが、私はどうしても活版の圧の気配にこだわった。白石編集長は、この頃フォアレディースの四角い判型に少し飽きてきた時期で、縦長の新しいシリーズを考えていた。かのアップルの誕生より はるか以前に、かじったくぼみのないリンゴのロゴマークを考案し、背に入れてアップルブックスという新シリーズの最初の一冊『水絵具の村』を上梓した。『みだれ髪』を持った妖精がゆうすげの茎に座っている絵を自分で描いてしまったためか、あまり売れなかったようである。宇野さんに頼んでもいいと言われたのに、いま思えば何とも無念なことをしてしまったものだ。
 詩は、唯一無二の言葉や漢字を択び抜き、挟んだ助詞ひとつで意味がまったく変わってしまうほど精緻なものである。ありふれた言葉を、前後の取り合わせで、輝かせる作業でもある。(これは装丁の、素材の選定とよく似ている)このような絶えまなく推敲する詩的な感覚で散文を書き続けること、すなわち職業にすることは到底できない、と確信した。といって、軽やかに書き流すこともできなかった。

 白襟に紺と白のチェックのワンピースの似合った担当編集者のKさんは、高見順の『天使の時間』のヒロインの若い溌溂とした編集者久美子のような、新進作家だった三島由紀夫とおつき合いしていた頃の聖心女子学院の佐々悌子さんのような、日本画家杉山寧の息女で三島夫人だった平岡瑶子のような、ふっくらとした知性の漂うひとだった。 
 新書館主催のパーティーで、Kさんが寺山さんを紹介して下さった時、「君、何座?」と聞かれたので、「山羊座です!」と答えると、「山羊座なら大丈夫」と言われ、なぜかと問う間もなく、ひらりと取巻きの女の子たちのほうへ行ってしまわれた。会うと誰にでも「君、何座?」と聞いていたという噂もあったが、いまも元気がない時は、「山羊座なら大丈夫!」と自分に言い聞かせている。その時着て行った、前見頃にスモッキングのあるシルクタフタ風のアップルイエローのワンピースを見るたびに、交わされた短い会話を思い出す。多才で山のように肩書きのあった寺山さんだったが、天井桟敷の芝居すら観たことがなかった私にとっては、純粋に小粋で摩訶不思議な物語を書く詩人としてのみ存在していた。

 1983年、入院されていた阿佐ヶ谷の河北総合病院で、第一作品集『われに五月を』というとおりの、その美しい五月に寺山さんは亡くなった。満47歳だった。青山斎場での告別式には、海猫の群れ翔ぶ青森の海を背に、トレンチコート姿で微笑している寺山さんの大きな遺影が飾られ、追悼の長い長い列ができていた。 
 寺山さん亡きあと、フォアレディースシリーズは選者不在になリ、編集長も退職されて、自然に消滅した。時代は、文芸的なものよりも、すでにコミックの方にシフトしていた。 私は予定通りに生業としてデザインを選び、書くことからは次第に遠ざかっていった。


(写真はミニチュアブックに仕立てた『新月抄』。藤色と灰青の革の継表紙。表1はレースペーパーにタイトルラベル。背タイトルは銀の活版箔押。天地87×左右65mm。2004年制作。林静一さんの絵がこっそり挿入されている。)