広津里香『死が美しいなんてだれが言った』と『蝶の町』

yt0765432012-09-28

 1977年1月、朝日新聞3面の記事下5段抜きのカッパブックスの広告が眼にとびこんできた。その大半は『死が美しいなんてだれが言った』という本に費やされていた。[思索する女子学生の遺書]とサブタイトルがついている。著者は29歳で夭折した広津里香(本名廣津啓子)。
 父廣津萬里氏の言葉は、読むからに切ない。「時にこの残忍な災厄、須臾(しゅゆ)にしてあなたはこの地上を去った。……風のように駆け抜けて、手をさしのべるいとまもなく、あなたは逝った。……あなたは何故男に生まれてこなかった。地上の制約は半減して、あなたは自由不羈(ふき)奔放に、現世を闊歩できたろう。……あなたも、招魂の日には、駿足を利して桜ヶ丘に舞い降りよ。父は地上にて待つ、いつまでも。命ある限り!」
 約半世紀が経過した今であったなら、彼女は自由闊達に才能を伸ばし、苦もなく外国に留学し、社会で希望するどのような意義ある仕事にでも就けたのに違いない。芸大の美術建築の二次試験(実技)に行ったら、周りは百戦錬磨のつわものばかり、女子の受験生は彼女ひとりだったという時代なのである。彼女はそこを棄権し、重なっていた東大理系の三日目の受験に赴くが、写生の道具しか持っておらず、その夜、発熱。翌年、東大文系に入学する。
 高校生時代、彼女は『アンネの日記』を愛読し、アンネが「親愛なるキティーに」と呼びかけていたように、「Note de Vivi」と名付けた日記に心情を吐露しはじめる。日付も dimanshe 28 juin というようにフランス語表記だった。冒頭は英語の詩で始まっている。
 「私の名前は、このノートブックの中ではヴィヴィ。そしてこれが私の唯一のほんとうの名前なの。私は金沢大学付属高校二年生。私はこのヴィヴィという名前が大好き、ヴィヴィって、甘くてこっけいにきこえるでしょ。」
 父は大学教授、自身もエリート校に通っていた彼女は、『風と共に去りぬ』のスカーレットが好き、メラ二ーは嫌い、東洋を、アジアを、日本を嫌い、田舎を、畳を嫌い、束縛を嫌い、定例コースの凡庸な生き方を嫌った。
 自分が育ちのいいお嬢様風に、またチャーミングに見えることを明瞭に意識しながら、内面では激しくそれに抗う。凡庸な会話のあとの虚しさに苦しむ。ジャン・マレーボードレールは、ナイーヴでエゴイスティック、自分と似ているから、決して愛は感じないだろうと思う。
 好きなものは透明なマニキュア、すごく小さなスカイブルーの表紙のCollins英仏辞典、パールピンクのきゃしゃな万年筆、ヘルメスの桜リキュール、古典的な花の色彩のあるビーズのバッグ、ローズのジョーゼットのストールにローズのコート、白い毛皮が裏についた茶色の皮のブーツに、スワトウ製のハンカチーフ……とこちらは優雅で乙女っぽい。


    私はいやだ 


  切り取って
    花瓶にさしても 
  バラはひらく


  私はいやだ
   花瓶のなかで 
  花開くのは


  つかまえて
   檻に入れても
  豹は生きる

 
  私はいやだ
   金網のなかで 
  呼吸するのは


 彼女の早すぎる才気やセンシティブでシニカルで堅固な宇宙感に拮抗する者は、一流の大学に通いながら、周囲にはほとんどいなかったのではないか。恋はいくつもあった。しかし、西洋の男の子のように自分をエスコートしてくれる者は誰もいなかった。日本的な湿った情緒や習慣や風土を嫌い、欧州に行くことを切望しながらも叶わなかった。東尋坊犀川もあったのに、決行することができなかった。そして、孤独は日毎に深まってゆき、日記と詩と油絵を描くことに心血を注ぎ、内なる世界は、ますます研ぎ澄まされていった。死は、起床して「まだ生きていた」と思いながら一日がはじまるように、 日々一つの「指標」にさえなった。
 原罪があるように、「原死」、生まれ持った死、内包された死というものが、生まれてきた時にすでにあるのではないか、と私はいつも考えている。それは幼少の意識下にはなくとも、肉体とともにゆるやかに育っていくものであり、意識にのぼる時に否応なく人生を考えることになる。彼女の日記を読んでいると、ごく早い時期から、そこここに原死の感覚がちりばめられているのを見逃すことができない。日本に生まれてきたこと、「それは神様のいたずら。わたしがアクマの子だから」と呪い、「生まれた時にすでに日本で死んでたのだ」「周囲にきれいな興味をひくものがなんにもない国」「2、3歳でもう死を考えていた」木々に雪の降りつんだ森を北欧の森のようにきれいだと思いながら、これはまがいものだと知りぬいている。並外れた優秀な頭脳と感性と矜持を持っていたがゆえの、懊悩と葛藤と挫折と諦念。

 かつて銀座七丁目のライオンビヤホールで、旧建設省の下級官僚だった知人と飲んだことがあった。会話があまりにも面白くなくて、ふと眼を上げると、ボーイを含め、そこに居合わせたあらゆる人々が、 自分の眼球を残して一瞬すべて骸骨に見えたのだった。以後これほどことごとく平等な光景を二度と味わうことはあるまい、彼女が二重になった虹を見た、と「Vivi」に書いていたと同じくらいに、生涯にまたとないことに思われた。    


    私の skelton(骸骨)


  骸骨が歩く 宙づりになって
  空洞の目にはスクリーン
  映りはするは感じはしない

 
  骸骨に恋をしかけ 未来を語る
  そのおかしさに
  骸骨は誰にも見えない涙を流す


  血はもう流した 好きなだけ
  骨はからから乾いていく
  埋められるのも もう諦めた


  粉々に崩れゆくのを 待つばかり
  その気楽さに
  骸骨は痙攣して笑う

 
 津田塾中退、東大教育学部社会学科、同大新聞研究所、早稲田大学院英文科と進んだ彼女の学生時代は、学生運動まっただ中の騒乱の時期。彼女はそれには距離を置いていたが、傍観者ではなかった。 Viviのなかにも、1960年6月の国会構内での東大生樺美智子さんのデモ中の撲殺および扼殺死、同年10月の日比谷公会堂での社会党党首浅沼稲次郎の演説中の刺殺事件、岸与党の惨敗に終わった総選挙などにも触れられている。
 修士終了を前にして、フルブライトを受験するも、最終段階の書類の不備で思いもかけず不合格になった。
 「きらきら光る銀の輪が、いくつも私のまわりをまわっていた。私はそれをつかもうと、手をのばしていた。内の熱情と無数の銀の輪の反射で、私は輝いていた。今は消えてしまった。何も彼も。私の好きな銀の輪も、私のまわりをまわってはいない。」
 「来春はもうすぐだ。Viviは死んだ。私は生きてはならない。Viviを殺した時私も死ぬ。私は行為者で、Viviは観客だった。真の私を知っている、唯一の価値ある観客だったが、この対峙も終わるのだ。」
 「もう(生きるのは)28年でいい。」と書いていた言葉と呼応するかのように、日記は1967年、彼女の慢性シンナー中毒による29歳の死とともに突然終焉をむかえる。自死ではなかった。彼女の望んだ、郊外の小鳥が遊びに来る庭とアトリエのある新居の竣工を目前にして。

 没後の1975年、『黒いミサ』というモノクロ中心の詩画集が思潮社から出版された。1977年、同じタイトルの原色版の大判の画帖が刊行になった。古書店で購めた画帖の中から詩と絵を選び、蝶がエンボスになった革をメタルシルバーに染め、指輪だった螺鈿の蝶を斜めに配して、デュフィの蝶が好きだった彼女のために、小さな詩画集『蝶の町』を現在制作中。本文はその堅固で烈しいセンシビリティを表わすために、バックを黒にして、詩の文字を白抜きにしている。見返しは、太い間隔で極細の縦線の入った黒地の「セビロ」という銘柄の紙である。仕上り次第、書影を追加掲載するつもりでいる。
 「Note de Vivi」は、今読み返しても寸毫も古びてはいず、普遍的にあたらしい。苦悩は、思索する若い魂のあるかぎり、決して古びるということがない。 小島信夫氏は「あとがき」のなかで、死のことばかりを絶えず語りながら、彼女は最期まで生きたかったのではないか、と言っている。 「Vie」は「命」なのだから。