「まくろふぁ・りんくす」と紫陽花の小部屋

yt0765432012-06-10

 紫陽花が通用口の扉の前に咲き乱れている本の小部屋。図書館の奥のその部屋に、放課後集まっているのは、中学生の少女たちだ。東京杉並区の南のはずれ。そこにある公立中学の図書館は、図書室ではなく、独立した建物だった。その小部屋はPTA 用に使われていたので、本棚には大人の本がぎっしりと並んでいた。
 新しく出来た文芸部は、どんなことをするのだろう? みな期待に胸を踊らせている。顧問は、昔文学青年だった英語教師、初代部長のS・Mさんは、女子で初めての生徒会長に選ばれたばかり。彼女は、私がこの世で最初に身近で感じた、きらめくような才能の持ち主だった。
 1970年代を頂点として、ジュニア雑誌は花ざかりだった。もはや子供向きの本を読む時期ではなく、かといって大人の本にはまだ早い年代の少女たちを掬いとる形で、複数のジュニア文芸誌が共存していた。この書き手には、後に「玩具」で芥川賞を受ける津村節子や、人気作家になる前の平岩弓枝、後年すっかり方向が変わってしまった川上宗薫などが「純愛小説」を執筆していた。怜悧なヒロインが事件を解決する宮敏彦のミステリーも忘れがたい。挿絵を描いていたのは、藤田ミラノ、岩田宏昌、藤井千秋などだった。
 それらの雑誌に共通していたのは、小説のほかに世界名作のダイジェストの絵物語や、詩の入った風景写真や箴言がかならず口絵に載っていたことだった。
 美しい外国の風景写真に添えられたリルケやプレヴェールやエミリィ・ディキンソンの詩。これほど毎月載っていれば、ほとんどの詩は諳んじてしまう。隅っこに小さく書いてある「写真 オリオンプレス」というのは、いったい何のことだろう?といつも思っていた。のちに装丁を仕事にすることになって、神保町のオリオンプレスに写真を借りに行くことになろうとは、この時には夢にも思うはずがなかった。
 S・Mさんの「深海魚」と題した詩は、その文芸誌のひとつのコンクールで三席に入選していた。一、二席のありふれた「小さな幸福」風の詩が瞬時に色褪せてしまうほどの光彩を放っていた。あまりにもうますぎるので、審査員が大人に手伝ってもらったのではと疑い、故意に無難で凡庸な詩を一席に選んだとしか思えなかった。
 
  まくろふぁ・りんくす 
  まろこす・てうす 
  底にはふかーいほら穴
  あなた…
  あなたの思い出も沈んでいる  
  (中略)
  まくろふぁ・りんくす 
  まろこす・てうす 
  …いいえ むらさきいろのちいさなさかな   


と結ばれたその詩は、深海魚の学名を織り込んだ、エスプリあふれる小品だった。深海魚とは、むらさきいろの「きれいな」魚なのだと、その時にすっかり思いこんでしまった。(中略)は、原本が見当たらないので、はっきりした記憶のない部分だった。(最初の個展の折に上梓した活版原版刷の第一詩集『ミモザの薬』のなかに、ホタルブクロの学名を使った詩があるのは、その後20年を経てもこの詩の呪縛からどこまでも逃れ得なかった証でもある。)
 こんな詩が書ける14歳が存在するということ自体がめまいがするほどに衝撃的だった。その人がこんなにも間近に、手に届くところで呼吸をしているという、思いがけない幸運。利発聡明、細やかな感性を持った上級生は、やがて受験で忙しくなり、二代目の部長は、彼女の指名によって、私が引き受けることになった。期末に部員の文集を作る時に思いついたのは、単なる作品集ではなく、本物に近い小さな本にしつらえることだった。まず熱読していた『ハイネ詩集』から、好きな詩篇をセレクトし、本の中味を構成している折の構造を研究して、万年筆で詩を書き写し、糸でかがり、トランプサイズの小さな上製本が出来上がった。


  「夜の船室にて」


  海には真珠 
  そらには星
  わが胸 わが胸
  されどわが胸には恋


  ひろきかな海とそら
  はるかにひろきはわが胸
  真珠より星よりうつくしく
  かがやきひかるわが胸の恋


  わがうらわかきおとめよ
  わがひろき胸にきたれ
  げに恋のあまりに
  わが胸おとろえ 海もそらも消ゆ
       
                  (井上正蔵訳)


 しかし、それでは全員の文集にならないので、結局ふつうの形に落ち着いてしまったが、私にとっては、『ハイネ詩集』を作ったことが、すべての小さな本の原初の芽になったのだった。
 その頃生徒会雑誌に書いたのが、ノスタルジックな『10月はたそがれの国』を読んで心酔していたレイ・ブラッドベリ風のSFもどきの小品「砂糖漬専門店」だった。ブラッドベリは、 今年6月5日に91歳で逝去している。
 顧問の先生は、若き日に同人誌に発表した青春小説を、 耳まで真っ赤になりながら朗読なさったかと思うと、次には、築地署に連行された小林多喜二が、翌日遺体で引き渡された時の姿を、克明に語って下さった。ひとつの眼で夢みること、もうひとつの眼で社会と現実を見つめることをきちんと学んだのが、この文芸部だった。
 もしもまだS・Mさんが詩を書いていたら、彼女の詩集を編み、宝石のような一冊を作りたいと夢想している。それが無理なら、「深海魚」一篇だけの詩に、通常一色だけの見返しを何色も入れて、幾重ものパッケージにくるまれたような本に仕立てることも可能だ。かつて、結城信一氏の「祭典」という詩に、二種の見返しを入れて、表紙に貝の虹色の薄片を貼り、一篇だけの詩集を作ったときのように。


(初出:すばる書房「季刊絵本」1983年8号●特集「絵本の装幀と造本」より改題改稿)