夢見月、万朶の花のまぼろしは…

yt0765432012-03-15

 夢見月は陰暦三月の異称である。夢見月を迎えると、そっと思い出す情景がある。
 大学に入ったばかりの頃、背後から私の肩をつついて、振り向いた手にシュークリームをのせてくれた、クラスメートの男の子。文化人類学や文学や図学製図など、選択科目が一緒で、教室でよく出会った。内接楕円や五角形の描き方を教えてくれた。誰にでも、”君”ではなく、”あなた”と呼んだ。彼は高原の町の土産物屋の息子で、二浪していたうえに大人っぽく、私にはずっと年上の人のようにも思われた。
 しかし次の年の春には、彼の姿はもうキャンパスのどこにも見ることはできなかった。毎年芸大を受けつづけ、ようやく合格したことをその時知った。私たちがぽやぽやしている間に、きちんと課題を提出しながら、何度めかの受験に備えていたのだ。現役で私立に合格したら、出していた芸大の願書はなかったことにして、アルバイトに励んでしまった私には、それほどまでにして幾たびも高みに挑む気持ちが、よくわからなかった。達者なデッサンが目に浮かび、胸のなかにじわじわと寂寥がひろがって、はじめて私は自分の感情に気づいたのだった。

 夏休みを前に、私はある計画をたてた。休みには、彼は実家の高原の町に戻っていることだろう。観光で来たようにさりげなく、その土産物屋を訪ねてみよう。 
 さて、目指す店は駅前の鄙びたたたずまいの一軒で、地味な箱入菓子と絵はがきと木の葉のしおりのほかには、売るものとてないようだった。
 おずおずと彼の名を口にすると、兄嫁らしき人が答えた。
「ああ、 K君なら、昨日東京に帰りましたよ」
 なんという間の悪さ! 確かめたわけでもないのに、居ると信じて疑わなかった自分の迂闊さがうらめしかった。ふらりと入って注文したラーメンのつゆの中に、とめどなく涙が落ちて、食欲は少しもわいてこなかった。


 彼との夢のような再会があったのは、さらに翌年のことである。
 中野と杉並の区境の路地、私の家からほど近い場処に彼のアパートがあると聞いてから、中野駅に行く日には、バスを使わず、裏通りを歩くことにしていた。所在はすでにわかっていて、灯りのともっているドアの前までも行きながら、そのまま帰って来た日もあった。訪ねるほどの勇気はなく、偶然にそのガラス戸が開きはせぬかと、そんなわずかな確率に賭けたのだった。
 それは幾度目かにアパートの前を通った日曜日のこと、春はまだ浅かったが、奇跡のように閉ざされた戸が開いたとたん、その窓に爛漫の桜が咲き乱れ、次々と天へ舞い昇ってゆくまぼろしを見たのである。彼は私を見て驚き、そして微笑んでくれた。
 学校に残されていたデッサンを届けたり、本を借りに行ったりして、私はそのあともアパートを何度か訪れたが、ある日の正午すぎ、二人で何気なくTVのドラマを見ていた時、彼が「この女の子は、あの人を好きなんだよ。でも彼は別の人が好きなんだ」と解説してくれた。どれほどの意味が込められていた言葉かは、今もってわからない。「ん〜」と言いながら、中野と杉並の区境を越えた。以来、私はもうその裏通りに行くことはなかった。
 
 それからどのくらいの月日が経った頃だろうか。野辺山を旅した私は、その帰りに、ふとなつかしい彼の故郷に立ち寄ることを思いついた。本人は居なくとも、消息くらいは聞くことができるだろう。なにか清々しい気持ちだった。
 駅に降り立つと、町はおそろしいくらいに変貌していた。昔ギターを弾く若者に似合った素朴な駅前通りは、今や子どもじみた建物と騒々しい人混みに埋め尽くされていた。彼の実家は、ピンクの三角屋根に白い壁のおとぎの家そっくりに建て替えられていた。
 彼のことを尋ねると、おびただしい牛のぬいぐるみを背に、兄らしき人は、「五年前に癌で亡くなりました」と告げたのだった。芸大を卒業し、大手の自動車会社に就職してまもない頃にちがいない。
 まぼろしの万朶(ばんだ)の花は開いても、その町に二回とも思いの花はついに開かず、私にとっては、どこまでも無念そのものの町であった。


(初出:「ぱるる」1997年 第6号より改題改稿。「ぱるる」は、知人の翻訳家が発行していた短命だったミニコミ誌。当時の郵政省よりも早い命名で、かつ無関係。編集人が皆プロだったので、何度でも容赦なく書き直しをさせられた記憶がある)