小川町のオフィスと葬送文化研究会

yt0765432010-11-20

 小学校の校庭から見上げる空に、煙が流れる。それは近くにある堀ノ内葬斎場の煙突の煙だった。その頃からもうぼんやりと、人がいつか空に流れていくことを知ってしまった。火葬場や煙は日常の光景であり、否応なく近しい存在であった。狭すぎた小学校はその後、農林省蚕糸試験場跡地に造られた蚕糸の森公園内に移転し、小学校のあとは、セシオン杉並というコミュニティセンターに変身した。葬斎場も近代的なものに建て替えられた。
 神田小川町のオフィスに通っていた頃、『火葬場』(大明堂刊)という本があることを知った。共著の一人は、歩いて数分の東京電機大学工学部の先生だった。直接買いに行くほうが早いと思い、すぐに実行。現れた先生は、揺れるごま塩のポニーテールに、ジーパンの草履ばきで、学生と見まがうほど、ラフな出立ちであった。本はA5判草色の函入り、紺の紙クロス装の学術書の作りだったが、小津安二郎の「小早川家の秋」に登場する火葬場のシーンなどにも触れられていた。写真も多く、定価に見合う充実した内容であった。興味があるなら、あなたも研究会にいらっしゃいというお誘いがあり、「葬送文化研究会」に参加することになった。
 会のメンバーは、葬儀社の人、 銀行員から香奠返しの会社を起業した人、葬送ジャーナリスト、火葬炉の研究者など、日頃は絶対に会うことのできない職業の方ばかりだった。日本の火葬炉の温度は諸外国よりも低い( 遺体を大切にする)ということ、従来の香奠返しにはなかった美しいデザインの商品は売行きがいい。デザインとは、ラテン語のデ・シグナルから発し、天上の象徴=サインを地上に表し、儀礼用の贈答品はすべて呪物としての意味を持つ。デザインこそが心の時代の前衛という話にはいたく感銘を受けた。葬儀社の方からは、「今年もよろしく」と年賀状をいただきながら、なかなかお役に立つことができなかった。ロビーにトレヴィの泉そっくりの噴水のある、外国の明るくモダンなデザイン、ホテルのような葬斎場のビデオを見せていただいたりもした。まだ葬斎場というと、日本では暗く陰気なイメージを持たれる時代だった。
 そして、ひょんなことから、その方たちの原稿をまとめた本『葬送文化論』(古今書院刊)の装丁を担当することになった。カバーには、蝋燭の炎の先端の煤を微妙に位置を変えながらケント紙に写し取り、定着液で模様を固めたものを使った。表紙には、灰色の紙にストライプと大理石模様をあしらってある。自分でコラージュをしたり、和紙を破いたり、装丁をすべて手づくりで仕上げた幸福でやわらかな時代であった。
 先生が火葬場についての論文で建築学会賞を受賞されたとき、「この論文を製本してほしい」と、ちょっとはにかんでオフィスを訪ねてこられ、2階の喫茶店「サン・ミッシェル」で、造本の打ち合わせをした。やがて、先生は電機大学から隣町の共立女子大に転任され、定年後もお元気で研究と旅を続けていらっしゃると聞く。

 オフィスから3分歩くと、すぐに駿河台下交差点。毎日が古書街だった。すずらん通りには、春、うす紅のカスタニエンの花が咲きこぼれ、舗道に散り敷いた。昼食には父と三省堂本店地下のドイツレストラン「ローターオクセン」(赤牛亭/『アルト・ハイデルベルク』の舞台となった店と姉妹店)に行った。壁や天井一面にワインのラベルが貼ってあった。今はラベルもなく、店の名前も変わってしまった。途中、源喜堂書店や崇文荘書店にひっかかり、源喜堂では、店頭に新しい仕掛け絵本が出るたびに、思案することなく買い占めていた。
 オフィスのあったビルは狭い部屋ばかりで、超零細な編集プロダクションや、ライター、デザイナー、翻訳家、印刷屋さん、写植屋さんなど、出版関係が多かった。三省堂裏口を出たところにある居酒屋「兵六」で、隣で飲んでいた人が、「僕、あなたのビルの一階で印刷やっている」といわれ、個人誌「邯鄲夢」(かんたんむ)の印刷をお願いした。彼に「兵六」の向かいの冨山房の編集長を紹介してもらい、「冨山房百科文庫」の幾册かを装丁した。独立した編集長は私の居たビルで出版社を起し、私も印刷屋さんも去ったあとも、そこで本を出し続けている。
 2009年に堀ノ内葬斎場で20年神田で一緒に仕事をした父の葬儀があった。翌年知人の母堂の葬儀で桐谷斎場に初めて行った。ともに公共の施設なので、大理石などの建材の種類や意匠や色、待合室や受付の位置や間取り、腰高の壁、エスカレーターの配置など、まったく同一の図面が基本になっていることを体感した。同じ建物にいるのではないかと錯覚するほどに、既視感に満ちあふれた場所であった。
 『葬送文化論』のなかに、桜の木のある火葬場の思い出が綴られており、「風に舞い散る桜のひとひらひとひらは、遺族の心にとても優しくつもってゆくだろう」という描写があった。この本の装丁をした時には、まだまだ実感のない感覚であった。昨年の春の夕刻、公園で爛漫の夜桜を見上げて「蚕糸の森公園の桜か」とそっとつぶやいた父は、来年の桜を見ることはない、と悟っていたのだろう。桜は生きている誰にとっても、永遠に愛でられるわけではない戒めの花である。