アンドレーエフ「金のくるみ」とマグネットの子持本 

yt0765432010-11-06

 ロシアのレオニード・アンドレーエフの「金のくるみ」は、子どもの頃も今もベストワンの童話だった。
 林のなかの牝の子りすが、通りがかりの優しい天使に、天国の庭に実った金のくるみをもらう。ころころ転がして遊んだあとに、ぴかぴか光るきれいな金色だったので、「金のくるみを いただくなんて、もう もう 二どとないんだわ、だいじに とって おきましょう」と林の木の下に埋めておく。年が過ぎ、幾度目かの冬のこと、さあ、あのくるみを食べましょう。きっとからだがあたたまるから、と期待に満ちて掘り返す。ところが、子りすは既に子りすではなく、歯がみな無くなっていて、実を食べるどころか、殻を噛み割ることすらできなかった。
 ある寒い日、天使が空から下界を見おろすと、木の根元に冷たくなったばあさんりすが横たわり、かたわらでくるみがひとつ、金にかがやいているのが見えた。頭と目の大きな可愛いりすと、花かんむりとロングスカートのほっそりと上品な天使の挿絵がすばらしく(絵・東本つね)、哀感を幾重にも倍増させられる。
 物事を先延ばしにしてはならない、老いを視野に入れよ、などの耳に痛い訓示が思い浮かぶ童話だが、これは『二年生の世界童話』(ひかりのくに昭和出版刊)に収録されていたものである。こんな悲しいお話を「小学二年生」のために採録した浜田廣介の慧眼に感服するよりほかない。浜田廣介は、巻末の「鑑賞と指導の頁」で、「もの惜しみにともなう教訓、すぎていく『時』への寓意がこめられており、小さなリスにむけられるあわれな思いが、幼い者にも、じゅうぶんに感じられるでありましょう」と結んでいる。
 その話から大人になっても逃れることができないもと小学二年生がいることを教えてあげたい。パセティックなものへの嗜好は、このときにじゅうぶんすぎるほど胸のなかに植え付けられてしまったのに違いない。

 終生忘れられないほどのこんなに最高潮に悲しいお話を「すこし かなしい おはなしです」と冷静に締めくくるアンドレーエフって、どんな人だろう?と思った。調べてみたら、作品になんと、「胡桃」と「天使」と「歯痛」が!
 「歯痛」を実感することなしに、誰がこんなお話を思いつくことができようか。「歯痛」は、森林太郎森鴎外)が翻訳している。『浮雲』の二葉亭四迷や、「美はただ乱調にある。諧調は偽りなり。」の名言を残し、「日陰茶屋事件」で浮き名を流し、関東大震災の時に、伊藤野枝とともに甘粕大尉の手にかかったアナキスト大杉栄なども、別の作品の訳に名を連ねていた。 
 アンドレーエフは、ゴーリキーによって流行作家となり、初期のヒューマンな作風から、象徴的、神秘的、厭世的な作品に変わった。このお話にはシニカルな匂いが漂う。転換後の作品だろうか。

 歯が弱くなってくると、待ちに待ったくるみを食べることができなかったばあさんりすの悲しみが、歯が痛むようにじわじわと解ってくる。おそろしい童話かもしれない。アンデルセンと同じく、主人公を予定調和の衣にくるんで甘やかしたりしたりしないのがよかった。しかし夜半にほんのひととき楽しくあたたかい夢が見られる「マッチ売りの少女」とくらべても、どこにも救いようがなかった。
 そこで、みずから後日譚を書いて、本の中に本がある「子持本」に仕立てた。りすの魂が虹の橋を渡っていく「すこし あかるい おはなし」である。背は濃いエンジ色の革に、タイトルは、鉛活字の金箔押し。表紙は金色のしぼ入りの人工革。見返しは、オフホワイトの地にセピア色のロシア風の花模様が刷られた紙。花布(はなぎれ)は後日譚と同じ明るいオレンジ。この豆本(天地95×左右70mm)は、20年ほど前の神保町檜画廊での最初の個展でお披露目をした。作者には「余計なことを」と冷笑されそうだが、そのときは、ちいさな後日譚を取り外せばよい。着脱可能なようにマグネットを埋込んであるのだから。