ルー・サロメ 善悪の彼岸
◉ルー・サロメ 善悪の彼岸◉
――ニーチェ・リルケ・フロイトを生きた女
ルー・サロメの本名は、ルイーズ・フォン・サロメ。ロシア皇帝に仕えるグスタフ・フォン・サロメ将軍の第六子として、1861年にサンクトペテルブルグで生まれた。幼い頃から利発聡明で、それを見抜いた教会のギロート神父から、17歳の少女が消化できるとは思えないほどの、ありとあらゆる知的訓練を受ける。キリスト教、仏教、ヒンズー教、マホメット教を比較しながらの宗教現象学の根本概念、哲学、論理学、形而上学、認識論、フランス古典主義演劇、デカルト、パスカルの哲学、シラーなどのドイツ文学、美術史、世界史、オランダ語、カント、キルケゴール、ルソー、ヴォルテール、ライプニッツ、フィフテ、ショーペンハウアーをも読ませた。19歳のとき、自分に夢中になってしまったギロート神父の求婚を斥けるため、ルーは故郷を後にし、チューリヒ大学の聴講生となる。出国のための洗礼式で、ギロートは、はじめてルイーズをルーと呼び、彼女は生涯その名を名乗ることになった。
スイスでの猛烈な勉強がたたって、病を得たルーは、医者に転地療養を命ぜられ、ローマに赴く時に、キンケル教授からマルヴィーダ・フォン・マイゼンブーグ夫人への紹介状を渡され、そのサロンに出入するようになる。夫人のサロンには、その時代の知性がこぞって出入りしており、そこでルーは、若き哲学者パウル・レーと出会う。レーはすぐにルーに夢中になり、友人のフリードリッヒ・ニーチェを紹介すると、ニーチェもまた一目でルーに心を奪われてしまう。
この時、ルーは21歳、レーが33歳、ニーチェは37歳だった。
ルーは、各々が勉強するための個室を持つ家での共同生活を提案する。 今でいうシェアハウスであろう。この頃、ニーチェの発案で三人は写真館に行って、「聖三位一体」という奇妙な写真を撮っている。前方で荷車を引くレーとニーチェに、後方でルーがムチを振るふりをしていて、彼女が男たちを支配しているかのような写真である。結局、聖三位一体シェアハウス計画は、レーとニーチェの嫉妬によって破綻した。
会ったばかりの男性をたちどころに虜にしながらも、ルーの言動や思考は限りなく男性的であり、女性的な媚などは一切なく、いわゆるファム・ファタール(魔性の女)とはほど遠かった。
ルーが26歳の時、突然フリードリヒ=カール・アンドレアスと名のる黒髪の大学教授が訪れ 、ナイフを自分の胸にかざしてルーに結婚を迫った。アンドレアスが傷を負ったのに恐れをなし、ルーはやむをえず彼との”白い結婚”に同意する。
失恋による傷心、病気の発作、ルーをめぐる母や妹との不和、自殺願望にとりつかれた苦悩などから解放されるため、ニーチェはイタリアへ逃れ、そこでわずか10日間で『ツァラトゥストラはかく語りき』の第1部を書き上げる。
パウル・レーは、ルーの結婚を知って失踪、オーストリア山村の救貧医となり、会わなくなってから14年目に、崖から転落死をしている。
ルーは、アンドレアスと結婚後に、14歳年下の新進気鋭の詩人ライナー・マリア・リルケと運命的に出会った。リルケもまたルーに深く心を奪われ、ロシア旅行などをともにしている。その後ルーに振られたリルケは、北ドイツの芸術家村ヴォルプスヴェーデを訪れ、その地で知り合った、ロダンの弟子で彫刻家のクララ・ヴェストホフと結婚したが、ルーの予言どおりにそれはうまくいかなかった。リルケは1910年に、パリでの生活を題材にした小説『マルテの手記』を、ドイツの古城で連作詩『ドゥイノの悲歌』を書いた。リルケにとってルーは終世忘れることのできない女性であり、51歳で死去するいまわの時に「私のどこがいけなかったのか、ルーに訊いて下さい。彼女しか知らないことです」と言い残している。
ルーに一目で魅惑されたのは、哲学者、心理学者、医者、政治家、と枚挙にいとまがないが、彼女は熱情を捧げる相手と、アンドレアスやニーチェやレーのように白い関係とに、明確なラインを引いていたように思われる。
晩年のルーは、「夢判断」の精神分析学者ジグムント・フロイトのよき理解者であり、共同研究者であった。
1977年のイタリアのリリアーナ・カヴァーニによる映画「ルー・サロメ 善悪の彼岸」では、ドミニク・サンダがルーを演じている。映画は、ルーの若き日だけを描いているので、主にレーとニーチェとの三人を主軸とした物語であり、リルケは、最後の場面でチラリと姿を現すにすぎない。
ルーは小気味のよいほどに徹底的に自己中心的な人物だが、何があろうと、いささかも自分の生き方を変えないし、その強烈な個性やたぐいまれな知性が、男性の誰をも虜にしてしまう。リルケとの別離後も医師のピネレース(ゼメク)や精神科医ビエレ、タウスクと言った若い恋人たちが常に身近にいて、最後は、アンドレアスの事実上のパートナーであった家政婦のマリーとの間の庶子マリーヒェンを養女にした。
ルーの死後、ゲッチンゲンの高台のハインベルグの丘の家にゲシュタポのトラックがやって来て、ルーの蔵書を積んで運び去り、市役所の地下室に放りこんでしまった。
[参考文献]
H・F ・ペータース『ルー・サロメ 愛と生涯』土岐恒二訳(筑摩書房)1965
白井健三郎『ルー・ザロメ ニーチェ・リルケ・フロイトを生きた女』(風信社)1985