挿絵画家 松野一夫の多彩な世界


 かつてあったのに今はなく、自分で作ってしまいたいと思う本のひとつに、少女雑誌がある。少女といっても子どもではなく、若い女性という方が近い。もっと広い意味では、”少女の感性”を持ち続けているひとのための雑誌である。
 上質の教養と娯楽とロマンがあり、繊やかな情感に満ちている。初めて詩や名作に触れて、それを飾っていた挿絵を、いつまでも記憶に刻んでいる読者も多いことだろう。
 実業之日本社の『新女苑』創刊の昭和十二年から十五年まで、巻頭カラー口絵の「名作絵物語」の挿絵を描いたのが、松野一夫である。
 物語はジイドの『窄き門』、モームの『雨』、リラダンやヘンリー・ジェイムス、パール・バックなどの名作を阿倍知二、山内義雄などが翻訳したダイジェスト版だった。単なる挿絵ではなく、アーチ型や壺や皿の形のなかに絵を描くといった装飾的な試みも高く評価されている。
 また、創刊号の付録の屏風折のスタイルブックでは、その表裏を中原淳一が和服、松野一夫が洋服を担当して、大胆なデザイン感覚の絵とともに、配色や着こなし、コーディネートについてのアドヴァイスをしている。本誌では、”ヴォーグ”というファッションページの連載も持っていた。
 しかし、松野一夫の名を一躍世に知らしめたのは、なんといっても大正から昭和にかけての博文館の名高い探偵小説誌『新青年』の表紙絵によってであった。
 
 松野一夫は、明治二十八年、福岡小倉の裕福な家庭に生まれた。
ところが、中学卒業前の父の事業の失敗によって家運が傾き、それを機に単身上京、安田稔に師事して絵の道に励みはじめる。
 大正十年には油彩画「ときちゃん」が帝展に入選するが、タブローでは生活ができず、作品を持ち込んだのが、創刊間もない雑誌『新青年』の編集部だった。
 当時『新青年』は海外移住、開拓成功譚などの記事のほかに外国の翻訳探偵小説を積極的に掲載していた。バタ臭い松野一夫の絵は、その小説の挿絵にはうってつけだったらしく、すぐに採用が決まった。
 以来二十七年に亘って、表紙、口絵、挿絵を描き続け、松野一夫といえば『新青年』といわれるほどにその関わりは深くて長い。
 初代編集長は森下雨村、次が横溝正史延原謙水谷準と交代していったが、これほどに長く続いたのは、それぞれに個性の違う編集長からの厳しい要望によく応えたこと、そして何よりも、外国人を英米独仏露伊西、のみならず同じ英国人でもアイルランド系とスコットランド系にまで描き分ける才能に恵まれていたことにもよるだろう。
 また、その技法や表現を自在に変化させながら、ひとつところに留まらず、意欲的に時代を先取りしていったその柔軟性な精神にあったともいえるのではないだろうか。外国の雑誌や映画を研究しつつ、人物の骨格や仕草や表情、最新のデザインを吸収することも日々怠らなかったのにちがいない。
 『新青年』の表紙は、そのタイトルロゴも含めて幾度かがらりと絵柄が変わっている。モダニズム時代の横溝編集長の頃にはアール・デコ調、水谷編集長の時にはフランス風と、その要請によって描かれたのだろうが、さながら松野一夫の実験劇場的な様相を呈している。それらは様式が変わってもどれも眩しいほどに新鮮で、読者である時代の先端をゆくモダンボーイたちの大いなる支持を受けたことだろう。
 昭和六年からの一年間をパリに暮らし、ヨーロッパ諸国も旅して、本物の外国の空気を存分に吸って帰国した。パリ滞在中にも欠かさず『新青年』の表紙は送り続けられた。渡仏の前からすでに定評のあった巧みな外国人描写にいっそうの磨きがかかり、日本にいた時には見られなかったような洗練された色彩や構図のものが届くようになったという。
 街頭の風俗や建物はスケッチブックに満載されていて、それらは帰国後に「サ・セ・パリ」「蚤取眼欧州覗奇(のみとりまなこおうしゅうのぞき)」となって口絵に登場している。
 昭和十年からは毎号衣装と顔立ちの異なったモダンな日本娘が表紙を飾った。戦時色濃くなった十五年末には、健康優良児的な青年の顔に変えることを余儀なくされている。
 ようやく女性像に戻るのは戦後になってからだが、粗悪な紙のまま、もとの華麗さを取り戻すのを待つことなく、松野一夫は昭和二十三年に降板している。

 『新青年』でデヴューしたのち、松野一夫はあらゆる分野の仕事を精力的にこなしている。『主婦の友』では、獅子文六の「信子」の挿絵を描き、先の『新女苑』の「名作絵物語」や、『少女の友』『少女画報』の挿絵、大佛次郎岸田國士などの新聞小説、幾多の単行本の装丁や名作全集・学習雑誌の挿絵、また友人と豊文社という版元を設立して、子どもの絵本も出版している。
 流行のスタイル画あり、エレガントな写実画あり、モダンな抽象画あり、童画あり、漫画のようなユーモラスなタッチもあって、どれをとっても捨てがたいものばかりである。絵に関しては出来ないことのない、多彩でオールマイティなひとであったようだ。
 レパートリーが広すぎて、あまりにも器用すぎるようにも思うが、その器用さが少しもわざわいしていないのは、老若男女国籍を問わず、登場人物が的確なリアリティーに裏打ちされているからだろうか。
 子息松野安男氏は、「父はフランス人らしさやシャーロック・ホームズらしさのような何々らしさにリアリティーを追求したのである。ディズニーの漫画映画が大好きで、ドナルド・ダックのアヒルらしさ、ウッド・ペッカーのキツツキらしさを子どものように喜んだ」と書いている。
 その優れたデザイン感覚は装丁においても見事に生かされ、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』『白蟻』、クロフツの『樽』、ベントリイの『トレント最後の事件』などは、挿絵画家というよりはほとんどデザイナーの仕事であり、現代でも少しも古めかしさを感じさせないほどに」斬新である。
 『黒死館殺人事件』の『新青年』連載時には、松野一夫が生み出したスクラッチ技法による挿絵の印象が強く、単行本には添えられなかったために、読者はがっかりしたということである。

 晩年の松野一夫は、たいそう信心深くなって、毎月二回、欠かさずに遠方の神社にまでお宮参りに出かけて行ったそうだ。
 また、七十歳を過ぎてからは、回想のパリ風景や唐詩選といった注文によらない絵を、水彩や水墨画で描くようになった。
 圧巻は、故郷小倉の幼い日に見た風景を、おぼろげな記憶だけに頼って描きつづり、みずから絵巻風に仕立てた「小倉絵巻」と題する一巻である。
 合わせて五十葉の説明文と淡彩水墨画を、小倉のゆかりのある来客の前で繙くのを、無上の楽しみにしていたという。
 商業美術の宿命のようなものを背負って、激しく移り変わった大正・昭和の時代の最先端を駆け抜けていった挿絵画家が、生涯の終りに引き戻されるように帰っていった場所、それはもうとうに失われてしまった、明治末期の純日本風な静かで素朴なノスタルジアのなかであった。

(初出:「本の都」一九九八年十一月号)