ジュディット・ゴーティエと東洋ヘの夢

yt0765432013-03-30

 日本に生まれ、西洋に憧れ続けて逝った広津里香とは対照的に、フランスに生まれ、ロンドンとパリ万博でジャポニスムオリエンタリズムに触れて東洋に憧れたジュディット・ゴーティエは、時にキモノを羽織って日本・東洋趣味の小説を書いた。
 彼女は1845年、ロマン派の詩人・作家のテオフィル・ゴーティエと、クラシックバレエ『ジゼル』の主役、舞姫カルロッタ・グリジの妹で歌姫エルネスタの長女として生まれた。両親ともに仕事で家を空けることが多かったので、ジュディットがパリの父親のもとで暮らしはじめたのは、ようやく十歳になった時だった。父は美しく成長した娘に驚き、娘は、父のサロンに多くの芸術家たちが通って来ているのに目を瞠る。
 テオフィル・ゴーティエは、私がもっとも愛するフランスの作家である。はじめて短編集『廃墟の戀』(1953年創藝社刊)を読んだ時、幾千の宝石箱の蓋を開け放ち、一斉に天空からまき散らしたような、絢爛たる言葉のシャワーにたちまち酔いしれてしまった。田辺貞之助の流麗な訳に負うところも大きい。小説の舞台も中国、エジプト、インドと、異国情緒が色濃くただよっている。
 『ジゼル』の作者としてのほうが一般には知られているかもしれない。『モーパン嬢』『キャピテン・フラカス』「水辺の楼」詩集『七宝螺鈿集(七宝とカメオ)』 etc …。限りなく思いの深いテオフィルのことはひとまず措くとして、今回はジュディット・ゴーティエについて語りたい。
 かつて資生堂のPR誌「花椿」に連載されていた海野弘の「旅をする女たち」の1990年の第103回目が、ジュディット・ゴーティエだった。テオフィル・ゴーティエの娘だということをその時知った。オーストリア皇妃エリザベートのように髪にエトワール(星)の髪飾りを付けた、サロンの女王にふさわしい華やかな写真が載っていた。十年にわたったこの連載は、のちに『パリの女たち』と改題して河出書房新社から刊行されている。
 父・テオフィルは、ロマン派の巨匠ヴィクトル・ユゴーの弟子であり、作家のアナトール・フランス、ピエール・ロティ、画家のドラクロワら、フランスの高名な作家や外交官、芸術家の多くがそのサロンに出入りするという、知的で恵まれた環境だった。サロンに来ていたペルシャの貴族から求婚されたこともあった。
 ジュディットが熱愛して結婚した相手は、アポロンとも譬えられたような美貌で、パルナシアン(高踏派)のリーダー的存在だった詩人カチュール・マンディス。彼とはリヒャルト・ワグナーへの傾倒だけは一致していたものの、女性関係が多く、父の猛反対を押し切って結婚した生活は、誇り高いジュディットにとって、決して幸福とはいえなかった。 
 やがてジュディットはマンディスと別れ、サロンの女王として、夢のなかに生きることのほうを択んだ。彼女はブルターニュのサンテノガにプレ・デ・ワゾー(鳥の園)という別荘を作り、一年の大半をそこで過ごした。 上流階級の肖像画家ジョン・シンガー・サージェントもサロンに通って、彼女の美しさを讃えて戸外での肖像画の連作を描いた。青空を背に帽子を押さえたモネ風の明るい作品も残されている。

 カチュール・マンディス、ヴィクトル・ユゴー、リヒャルト・ワグナー、ジョン・シンガー・サージェント、老いも若きも芸術家たちをみなたちどころに虜にしてしまうジュディットの魅力とは、何だろう。美貌のうえに、行ったこともない土地のことを、見てきたかのように書くことのできる、父から受け継いだヴィジオネール(幻想家)としての才能。ジャポニスムが大流行の折から、西洋人のこころを惹きつけるエキゾチックな国々の豊溢な知識の裏打ちのほかに、話術にも長けていたのではないか。中国人の家庭教師に学び、日本語を習得し、サロンの常連で、日本で暮らした経験がある『お菊さん』を書いたピエール・ロティに、日本の話を直に聴いたことも想像にかたくない。障子のはまった日本家屋のある東京駅周辺のことも、シャム王国の一日も、ジュディットは実際に見たかのように自在に書けたである。

 6年ほど前、「ジュディット・ゴーティエ」で検索して、ヒットしたのが僅かに4本。ひとつが吉川順子氏の『蜻蛉集(せいれいしゅう)』についての学術論文、ふたつめがジュディットのフランス語版復刻著作集、その次がアルフォンス・ミュシャの挿絵本『白い象の伝説』(ガラリエSORA刊)、そして最後が「ビオブリテカ グラフィカ 西洋挿絵見聞録」と題したブログの一編だった。
http://bibliotheca-g.jugem.jp/?cid=6 ジャポニスムと愛書趣味
 『蜻蛉集』(Poemes de la libellule/1884年) は、渡欧中の西園寺公望が『古今集』を中心に和歌八十八首を散文に仏訳し、これをジュディットが韻文に仕上げたもの。五七五七七の和歌の韻律をフランス語で踏んでいるという素晴らしい訳だという。ブログは、山本芳翠が下絵を描いた多色石版に本文活版刷のこの本のことに触れていた。版画は日本の三椏の局紙に刷られている。芳翠はパリ滞在中の絵画を、船の沈没によってことごとく失った非運の画家でもある。

 「ジュディットのことを知っている人がいるなんて!」とひどく感激したが、ブログ主は、私の周囲の絵や本好きの仲間のひとりであった旧知の気谷誠さんだった。彼が20代の終り頃、銀座の秀友画廊で、シャルル・メリヨンの版画のステートの説明を受けているところに、誰とも知らぬまま、私も偶々客として居合わせたのだった。最初に会ったのも画廊、最後に会ったのも画廊だった。 
 気谷さんは2008年9月に、50代はじめで惜しくも急逝したが その2年前に、悲願のジャン・グロリエ旧蔵本の一册を購入している。金箔押の幾何学模様で装飾されたルネサンス期(16世紀)の革装丁の逸品である。雄松堂の方によると、「出ました!」と伝えたのが午前、「退職願出したから買う」と連絡が入ったのがその日の午後。「この機会を逃すと、もう生涯手に入らないと思った」からだ。マンションの小さな部屋が買えるくらいの価格だったそうだ。
http://bibliotheca-g.jugem.jp/?month=200604 ジャン・グロリエ旧蔵本
 『季刊銀花』158号に、気谷さんをこの世界にいざなった、 日本の製本工芸家の第一人者大家利夫さんによる、珠玉の気谷蔵書の紹介記事が掲載されている。大家さんもやはり『銀花』の縁に連なる方である。私が新入社員の頃、『銀花』に載っていた新宿の和紙の店「ももよ草」に通いつめるうち、店員さん(実はK社のカメラマン)が、「凄い人がいるから、みんなで会いに行こう!」ということになり、車で郊外の大家邸に連れて行ってもらった。栃折久美子さんがベルギーで三ヶ月製本を学んだだけで新聞記事になった頃、すでに大家さんはパリに住み、革装にいくつもの金版を組み合わせて精緻な箔押を施した顧客の注文による本を造っていたのである。
 気谷さんのように、西洋の稀覯本の蒐集に情熱を燃やす人は、もうほとんどいなくなってしまった。今さらながらに早逝が惜しまれてならない。

(参考文献:資生堂花椿」1990年1月号 海野弘「旅をする女たち」第103回/海野弘『パリの女たち』1994年河出書房新社刊)