結城信一と骨細工の小鳥

yt0765432011-11-08

 私がはじめて結城信一の作品に触れたとき、「小説(短篇小説)とはまさにこういうもののことをいうのだ」と思ったが、その味わいは、京都今出川玉壽軒(たまじゅけん)の和三盆「紫野」の口溶けに似ていた。小さくしっとりとつつましく、口に含むと抑制された甘味がゆるやかにひろがり、甘味の感覚が薄れる頃、異質な味わいの大徳寺納豆の存在に気づくまま、分かちがたくその融合の妙に酔ってしまう。そして、芳醇な余韻を残す終末へと急速に収斂してゆく。助詞一文字たりともゆるがせにしない、推敲に推敲を重ねた文章の深々とした余韻。極細の経糸緯糸が精緻に織り成されたしなやかに美しい絹織物のようだ。

 バスがすれ違って、子どもが道路に倒れていた。あとになって、タイヤが二重になっている後輪まで30センチだったと知った。後輪のわずかに手前で、私は助かって生きていた。
  手に絵の具が付いている、と思う瞬間がある。絵の具は使っていないのに、といぶかりながらよく見ると、小さな傷だったりすることがある。黄味を帯びた琺瑯の白いパレットの上で、混じり、睦み、暈され、乾き、拡がり、膨らんだ、透明水彩の淡い残滓のような絵の具まみれの脚。それが八歳の初夏の夕べのスーヴェニールだった。膝の六針の縫合の痕は、百合の六本の雄蕊のように太く成長した。

 結城さんが白金迎賓館(現・庭園美術館)の前のマンションにお住まいだった頃にはじめて訪問してから、幾度かその居宅に伺ったことがあった。駅ビルの「つきじ植むら」で夕食をとるために、高速道路を越えて目黒通りの風のなかを並んで歩いていたときのこと。途上にある恩地孝四郎墓所に立ち寄ったりしたこともあったが、その日は風が吹き渡っていたためか、無言で歩を進めていた。
 ふいに私は結城さんの小児麻痺のほそい左脚のことを思ったのだった。その脚から遠い方に私は歩いていた。意識的にそうなさるのである。結城さんはご存知なかったが、そうすることで、私の絵の具まみれの脚からも遠くなるのである。そして、ふたりの相離れている脛骨(けいこつ)のなかに、気が遠くなるほどに精巧な透かし彫り骨細工の鳥籠があって、それぞれに一羽の小鳥が囚われている。その小鳥たちが、目黒通りの風のなかで、相鳴き交わしているような共犯者めいた幻想を覚えた。それは、風の音に消されるまでもない、かそけきさえずりであった。

 「……今では私の半身を支へる左脚は痩せて、右脚の半分ほどもないし、唖のごとくに冷たい。私の貧しい命は、この不均衡な二本の脚の上に立つてゐる……」(『螢草』)高まってゆく軍国主義のただなかで、勤務先の中学校の教頭に、ゲートルを巻くことを強要されたことが、血も凍る屈辱であったことが「落落の章」に描かれている。肉体に負目のある者に芯のように宿っているパセティックな愁いは、表には出なくても常に消えることがなかった。そのことが私には、解り過ぎるほどにわかるのだった。

 「うぐひすは最も好きな小鳥」と『螢草』の「序の章」に書かれていたが、あの若緑の春告げ鳥に、あたたかい脈動を感じられたからだろうか。骨細工の小鳥は、しかしウグイスではなく、小説『文化祭』のなかで使われた、キャサリンマンスフィールドの短篇小説「カナリヤ」のように、鳴き交わす鳥がふさわしい。
 友人栗林が校長をしている女学校に英語教師として赴任した主人公は、磯貝邦子という女生徒の美貌と利発さに注目する。文化祭で邦子にマンスフィールドの「カナリヤ」の英語の朗読をさせては、という提案に、昨年も磯貝だったと渋る栗林を押し切って、邦子の朗読は実現する。

 「カナリヤ」の主人公は、溺愛していた死んだカナリヤを「あの子」と呼んで深い嘆きを語っている。
 「……花は、不思議なことに、私と感じ合ふことはあるのですけれど、思ひ合つてくれることはないのです……あの子こそ、ほんたうの私の友達でした。完全なお友達です。……あゝ、それなのに、もうあの子はゐないのです。……といつても、私が思ひ出といふものに病的になつたり、それに負けたりするのではなく、別な意味で、人生に悲しいものゝあることを告白しなければなりません。……私のいふ意味は、誰もが知つてゐる悲しみとか、病気とか、貧乏とか、死とかいふものを指してゐるのではないのです。……何か、人間の呼吸のやうに、深い深い奥のところにあるものなのです。……それにしても、をかしなことには、あの子のかはいゝ愉快な歌の中にも、この悲しみ一一あゝ、一体これは何なのでせう一一この悲しみが聞えたのです……」
 その朗読を聞きながら、主人公はふと、邦子はもう既に誰かと「感じ合ふ」だけではなく「思ひ合つて」ゐるのではないか、というつよい疑惑に捉われはじめる。「文化祭」は、その疑惑が最高潮になったところで終わっている。

 渚の砕け散った貝殻と、人間のさいはての姿とが、ついには同じものであることを知りぬいておられた結城さんは、私にとって、年齢を超えてもっとも「同志」的感覚を抱かせてくれた方だった。特別な感情を抱いていたわけではもちろんない。いま、空想の小鳥は一羽を残すだけになってしまったが、もはや相鳴き交わすことはついぞあるまい。そして、私の肉体が消滅する瞬間(とき)に、一声、静かに鳴いて終えるのだろう。

 少女であることの「つかの間の晴れやかな憂愁」に深く魅入られていた結城さんは、地上の少女たちが、帝の手さえも拒んで天上へと帰還したかぐや姫ではないことを、誰よりもよく承知しておられた筈だ。小説のなかでは、もうヒロインたり得ない少女でなくなった娘たちが、どう生きてゆくのかを、むしろ人生はそれからなのに、結城さんは決して書くことはしなかった。
 生身の人間は、小説の主人公のように少女のまま死ねるわけもなく、かぐや姫のように天上に還ることもかなわない。「つかの間の晴れやかな憂愁」は、たまゆらだからこそ貴いが、その時期はいつか過ぎ去る。結城さんの鋭い感性は、学生時代から九年の交流の中で、憂愁が過ぎ去ったことを決して見逃しはしなかっただろう。逝かれてから幾星霜が過ぎても、怖いと思ったのはただそのことばかりだった。

(書影は『近作自選短篇集 文化祭』 右:青蛾書房刊のA5判並製カバー装。装画=風間完。左:貼函入上製クロス装の私家版。本文精興社活字。正字旧かな。装画=駒井哲郎)