SUB ROSA(薔薇の下で)と船室のアレクサ・ワイルディング

yt0765432011-06-17

 ビロードのような毛脚があるロココ調の椅子が、整然と船室のように並んでいた。浮き出し模様の深紅の布貼りだった。狭い店によくあるように、片側が鏡になっている。
 神保町すずらん通りにあった喫茶店「SUB ROSA」。高校生の頃買った、上製丸背で葉書よりも小さな四角い赤革のノート。その金箔押のタイトルと同じだった。ノートの扉には、ローマ時代には、薔薇の花を天井に飾った宴で話したことは秘密にするという風習があった、と書かれてあり、毎頁に横罫と薔薇のカットがセピアで刷られていた。その名の由来を知っていた私は、赤に白抜文字の看板の店に強く惹かれるものを感じたが, 最初に入ってみようと言ったのは、一緒に働いていた父だった。しかし、秘密めいた話をしているお客はどこにもいなかった。客そのものがほとんどいなかったのだ。
 オーナーの女性は、ラファエル前派のダンテ・ガブリエル・ロセッテイのモデルのひとり、「ギルランダータ(花飾りの女)」などに描かれた、縮れた前髪の赤毛のアレクサ・ワイルディングにそっくりだった。黒髪だったので知的な感じがした。彼女の書いていたノートを何気なく見てしまったら、あわてて閉じていたが、隠すまでもなく、横文字で読めなかった。
 アレクサの弾いているハープには、薔薇のギルセンド(花づな)が巻き付いている。上部両側の頭に翼を持った少女は、ウィリアム・モリスとジェーンの娘のメイ・モリス。メイは、アレクサがあまり好きではなかったようだが、ロセッテイ至上の作品として評価の高い「モンナ・ヴァンナ」 など、重要な作品のモデルもつとめている。
 秘かに愛していたものが、金太郎飴のように同じ形でメディアに頻出しはじめると、とたんに情熱を失う私は、よく知られたジェーン・モリスや、ミレーのオフィーリアのモデルにもなったロセッテイ夫人のエリザベス・シダルよりも、仇な感じの赤毛のアレクサ・ワイルディングのほうが好きだった。
 同じ通りをそのまま一ツ橋に向かってもう少し歩くと、「高岡紙店」があった。化粧品のパッケージの端物らしき繊細な銀のアラベスク模様が型押された紙などが、薄暗い店の赤錆びた店頭の棚に、無造作に置かれていた。直感的に値打を感じたものは、迷わず手に入れていた。といっても、信じられないくらいに安価だった。ふたつの店はもうずいぶん前に姿を消した。細長い店だった「SUB ROSA」は、今はウナギの寝床のようなお蕎麦やさんのカウンターになっている。 

 通りの向い側に今もある檜画廊オーナーの檜よしえさんは、俳優座の女優さん。はじめての個展以来の長いおつき合いだが、私好みのサッパリした人柄で、決して泣言は言わないが、人の泣言は聞いてくれる。その上、的確なサジェッションをしてくれる。肩が痛いと言えば、揉んで元気づけてくれる。ベテランの女優さんに肩を揉んでもらうなんて、なんとリッチなことか。 話しこんで日暮れになり、涙があふれそうな無上の幸福感につつまれながら家路をたどると、 私たちの同じ First Name の頭文字のYが、 神保町のビルの谷間の夕焼け空に、くっきりと浮かび上がる。