「すくすく」編集長と豆本『花もようの子馬』

yt0765432011-03-04

 「あんた、この会社、どう?」と、手許の光源の円い灯りだけがある暗室の闇のなかで、ぼっそりと話しかけてくれたMさん。入社したばかりの頃だった。定員二人の暗室は、先にいても、あとから入っても、誰とでくわすか予想がつかなかった。それぞれが手にしているレイアウト用のネガは、「装苑」のグラビアだったり、「ミセス」のインテリアだったりした。ほとんどおじさんに見えたけれど、20代の終りだった。携帯ももちろんない時代で、「オレ、あの日、台北に行ってて、連絡できなかったのよ」と、無断欠勤した日のことなどを、のちに語った。入社試験の時も、どんな刊行物があるのかさえも知らず、隣の受験者に聞いてその場をしのいだというつわものだ。
 Mさんが転職して、教育雑誌「すくすく」の編集長になった頃、「雪つむ野路のものがたり」という、20歳の記念に書いた童話で、「詩とメルヘン短編童話賞」というのをもらった。何の気なしに告げると「あんた、何か書いてみる?」といわれ、幼年童話「花もようの子馬」を書いた。父がタイトルをコンテで描いてくれ、牧野鈴子さんから素敵な絵をいただき、カラー頁を飾った。その後「すくすく」そのものがなくなるまで、10編くらいを書いた。 漢字混じりで書いたものを、オールひらがなと分かち書きに換えるのが苦手で、慣れなかった。 そのほかにも、レイアウトや装丁、イラストなど、何でも声をかけてくださった。
  Mさんは、そうそう出会うことのできない飄々とした型やぶりなひとで、とても面倒見がよかった。差別感がなく、実力者におもねるようなことも決してしなかった。ダイレクトな提言は一切なかったが、アバウトなようでいて、意気に感じる、恩義、礼節、誠実というようなベーシックなマナーをしっかりと無言で教えてくれた。wise と clever の違いについても教えてくれた。
 故郷に帰ってしまった同期のひとりが、Mさんに感じるのは「侠気(おとこぎ)」だといった。うまいことをいう、と思った。「本当は暮しの手帖社に入りたかった」と残念そうにつぶやいた彼女は、一時期、深い心身の悩みを抱えていた。担当していた雑誌の小さな記事を「暮しの手帖」の「すてきなあなたに」風にレイアウトして、と頼まれたものか、それらしい仕上りになっている。ある美術館の開館お披露目パーティー暮しの手帖社の方に会ったとき、もう東京にはいない彼女のことを少しかなしく思い起こした。
 サラリーマンは相に合わなかったらしく、Mさんはまもなく独立した。Mさんのオフィスの木製本棚の唐草の彫模様のことを、なぜか今もけざやかに覚えている。
 M夫人のM・Mさんも先輩であり、絵本の編集者だった。一緒に仕事をしていた父に、アーノルド・ローベルの翻訳絵本の描文字を依頼しに来てくださり、その後幾冊もの絵本が生まれた。今も売れ続けている三桁のロングセラー『ゆかいなゆうびんやさん』は、各ページの封筒を開くとさまざまな手紙や招待状が出てくる楽しい絵本。本のタイトルを含め、上手い字は父が、下手な字は私が書いた。どこにも名前はないけれど、父亡きあともこの本が書店の棚にあるという事実に、しみじみと幸福な想いがする。
 神保町での最初の仕事の装丁と手製の小さな本の展覧会のときは、ご夫婦そろって来てくださった。Mさんは40代の若さで他界したが、葬儀の写真は、20代の終りの頃のそのままだった。黒枠の窓のなかから身を乗り出して「あんた、この頃仕事どう?」と今にも話しかけてくれるかのようだった。
 「すくすく」にはじめて書いた「花もようの子馬」は、豆本にして、2002年初版の『自分で作る小さな本』の巻末付録に付けてみた。(写真はその角背の原本。各頁の色変わりの紙にレインボ−箔を置き、ホットペンで絵を描いた。86×64mm。)
 からだに青い花もようのある自分が何ものかわからず、そのアイデンティティをもとめて旅に出る子馬の話だった。自分が何ものになるか、何ができるかまだ不確かだった頃に、Mさんはじめ多くのひとに出会い、その後へとつながっていった。子馬は生まれた場処にたどりついたが、何ものかをさがす人生の旅路に結路はなく、まだまだ果て遠い道かもしれない。