霜葉は二月の花よりも紅なり

yt0765432011-02-28

 晩唐の詩人杜牧の作品に「山行」という七言絶句がある。
 斜・家・花が韻を踏んでいる。


 遠上寒山石径斜  
 白雲生処有人家  
 停車坐愛楓林晩  
 霜葉紅於二月花 


 遠く寒山に上れば 石径斜めなり
 白雲生ずる処 人家あり
 車を停(とど)めて坐(すず)ろに愛す 楓林(ふうりん)の晩(くれ)
 霜葉は二月の花よりも紅なり


 二月の花とは中国では桃の花のことだが、霜を置いたあざやかな楓の葉は、皆がほめそやす春の桃の花よりも紅い、と目の醒めるような絵画的な表現で詩っている。杜牧は中央のエリート官僚だったが、弟の眼疾のため、収入のよい地方官僚を志願した。人家も遠い田舎の侘び住まい。車とは、輿(こし)ではなく、手押し車のようなものである。

 茅盾(ぼうじゅん)の小説『霜葉は二月の花に似て紅なり』(岩波文庫/立間祥介訳)は、この杜牧の七言絶句を念頭に置き、二月の花を挫折を知らぬ若者に、霜葉を不遇に終わった詩人自身になぞらえたものという。 さらに「紅」に政治的な意味を持たせている。一見真の革命家のごとくふるまっていた小資産階級の青年たちは、反革命の嵐にあって変節し、反動したが、やがて枯れた紅葉のように散り落ちる運命にあった。「春の本物の赤い花よりも赤くさえあるが、似て非なるものである」
  当初の構想は、五・四文化革命から「大革命期」を経て、毛沢東から1927年の蒋介石のクーデターに至る前後十年の激動期を扱う予定だったが、序章で終わってしまった。茅盾は魯迅と並ぶリアリズム作家。革命と反革命の双方の矛盾を見てしまい、追われていたので筆名を使わざるを得ず、「矛盾」をそのまま使おうとしたが、いかにもペンネームとおもった編集者が、「矛」を「茅」に変えたという。

 江南地方の小資本階級の息子で、優しく生真面目な銭良材(チェン・リャンツァイ)は、汽船による農地沿岸の被害の報告を受け、小作農のために奔走するが、それが必ずしも農民の賛同を得ていないことを知る。慈善会の積立金の使い込みや町の分限者たちのふるまいなど、世俗のみにくさに嫌というほど直面して、繊細な良材は苦悩する。
 自分がお膳立てをした義妹婉卿(ワンチン)が田舎の幼女を養子にする祝宴にも遅れてしまう。婉卿の夫黄和光(ホワン・ホーコワン)はアヘンに溺れ、断ち切ることができない。婉卿の弟張恂如(チャン・シュンルー)と三人が宴のあとにひとつ部屋に集まったとき、 善と悪について、めずらしく酩酊した良材は叫ぶ。
「是非善悪の区別などなく、悪人が永遠に栄えて、善人は永遠になにもすることができない、というのか。世界は次第に悪人ばかりになって、ついには善人は根絶やしになってしまう、というのか」
  和光はいう。「ぼくは思うんだが、世のなかには、善人でもないし、悪人でもない、あるいは善人でもあるし悪人でもあるといった人間が多すぎるのではないか、だから悪人をはびこらせることになるのではないか」
  良材は笑い出し、「ひとりの人間が、どうして善人であったり悪人であったりできるのだ。善悪の区別がつかないからだろうか。(中略)またもし、善悪の区別がつかないのだとしたら、どうして人は、善だの悪だのということができるのだろうか。そういえるなら、なぜ、善ができないのか」そして、「ぼくは心から善人になりたいと思っているのだが、時には、なんと悪い奴だといやになってしまうときがある」彼は絶望的な笑いを浮かべて、「一人の人間が、心から自分を忘れたい、癖も、身分も、世間ていも、きれいさっぱり忘れたいと思っても、なかなかできないことかもしれないな」
 このことばに恂如と和光はともに胸を衝かれ、いいあわせたように溜息をついた。しかし、ふたりの受けとりかたは、必ずしも同じではなかった。……

 善も悪も、一皮剥けば同じで、白木の素地にペインティングした独楽のように、仕上げの色がちがうだけかもしれない。個々の価値観によって簡単にすり替わってしまうものである。中味が何かを見抜く眼を持たねばならないだろう。
 世界中のいたるところに矛盾があり、 どこにも賢明な選択肢を見いだせない置き去りの民はゆきくれてしまう。既存の見解にくみしない場合も多くある。真実はひとつではなく、そもそもどこにも存在しないかもしれない。自分の思念が確立したときにも、他に価値観を押し付けたり、別の価値観を排斥してはならないだろう。長期にわたる支配や、既得権益の温存、不都合なことの隠蔽もよいことではない。国民のレベル以上の為政者は持てないという。ひとりひとりが社会のかけがえのない一員だという意識を高めていくことはとても大切だ。小さな一枚の葉も、積もれば大きな炎を燃やすことができる。

 佐藤春夫は、中国を舞台にした「星」という、「第一折」「第二折」と、たたまれるように語られる短い寓話を残している。将来の自分に美しい妻と賢い子どもを、と星に願事(ねぎごと)をした陳三(ちんさん)と、地上の眼でいちばん美しい五娘(ごじょう)と、天の眼でいちばん美しい益春(えきしゅん)という二人の対照的な娘の話である。情熱的ではなやかに美しく、地上で人の眼を奪う娘がいても、天の眼は心の美しさを見抜いているというちょっと訓話的な話だ。解説の吉田精一は、「金メッキのような作家が多いなかにあって、佐藤春夫は純金の作家」と結んでいる。
 どのみち人の肉体は「過ぎゆく器」なのだから、あらずもがなの数々を顕示するより、個々に内奥に宿る精神を、静かに醗酵させ、矜持を持ってみがいていけばよいのだと思う。