エミール・ノルデの学者と青い顔の少女

yt0765432010-11-01

 エミール・ノルデの「学者と少女」を初めて見たのは、朝日新聞の当時は珍しい色刷りであった。「ドイツ表現派展」が上野で開催されていた時の案内記事だったのかもしれない。社会というものを知らない高校生の頃、その画家の背景なども知る由もなく、少女の青ざめたというより薄青そのものに塗られた顔に、直感的に烈しく惹かれるものを感じたためだろう、大きめのその紙面を保存していた。青い顔の官能的な少女の嘲笑は、すべての権威や地位や欲望を凌駕し、優越している。ノルデの絵は、火の玉のような一瞬の日没にも、咲き狂ったような緋色の罌粟にも、彼しか描けない強い意志と抵抗のほとばしりを感じるのだ。差し色としての原色ではなく、青と黄、赤と緑などの補色、強烈な色彩を多用した絵は、実はあまり好みではないが、ノルデだけは、その悲劇性において別格なのである。

 ノルデは、ナチスに退廃芸術(エントアルテテ・クンスト)の烙印を押されて弾圧を受け、1938〜45年にかけて、ゼービュルの自宅に隠遁することを余儀なくされた。41年、当局からは絵を描くことも売ることも、絵具を入手することすら禁じられた。ゲシュタポの監視の下で「描かれざる絵」(ウンゲマルテ・ ビルダー)は描かれた。油絵の具の匂いが漏れると絵を描いていることが悟られるため、昔の絵を小さく切り分け、その裏に水彩画を描くしか道がなかった。とっさの場合にも、隠すことが可能だからである。ノルデのような大きな筆致の画家にとって、小さな絵は極度の集中を強いた。その数は数百枚に及ぶ。
 ラジオを駆使したワンフレーズで国民を洗脳したゲッベルス宣伝相は、ノルデ、ムンク、クレー、カンディンスキーなどの5千点にのぼる大量の絵画を焼却、ヒトラーが開催した「退廃芸術展」 (1937)ではノルデは中心に据えられ、外貨を稼ぐために海外に売り払われた作品は、かろうじて消失を免れている。とりわけ標的にされたのが、ノルデとバルラッハだった。
 展覧会前夜、ヒトラーは演説を行ない、「我々は今から、我々の文化を堕落させる最後の分子どもに対して、仮借のない掃討戦を進めようとしている。……これら先史的石器時代人たち、芸術の吃りどもは、彼らの祖先の洞窟に戻り、そこで世界共通のプリミティブで下手くそな作品をこしらえていれば良いのだ」
 1945年、第二次世界大戦終結ナチス帝国の崩壊、ヒトラーと愛人エヴァ・ブラウンゲッベルスの自害、狂気の時代が過ぎたあとに、ノルデは「描かれざる絵」を油絵に書き直している。「もしすべてを油絵に描き変えようとしたら、私の生涯は二倍あっても足りないだろう」ノルデは78歳になっていた。
  エミール・ハンセン(1867〜1956)は、デンマーク国境に近いドイツ北辺のノルデ村に生まれた。のちにエミール・ノルデと名のる。第一次世界大戦の敗戦時に、その村はデンマークに割譲された。家具彫刻の仕事などをしながら画家を志す。シェーラン島北部を旅したときに知り合ったデンマークの女優アーダ・ヴィルスドルフと結婚、初対面の印象をアーダはこう記している。
「フネスデズのホールに、一人の男が腰掛けていた。一人ぼっちで、ボロボロの服を着て。シャツの袖には、パレットの絵具がいっぱい付いていた。……身だしなみはまったく整っていなかったが、威厳を持ってあたかも自らの周囲に孤立した雰囲気を作っているのかのように、一歩退いていた」
 「ブリュッケ(橋)」「シュトゥルム(嵐)」「青騎士」「ベルリン・ゼツェッシオン(分離派)」など表現主義のグループに関わりながらも、やがて距離を措かざるを得なかったノルデは孤立してゆく。
「学者と少女」は、1912〜20年頃の一連の作品のひとつ。「兄と妹」「王と恋人」「支配者と女」「少女と悪魔」「女とピエロ」「娘とサタン」など、対比としての男女が描かれ、その女たちの顔は、萩原朔太郎の詩の言葉のぬめりで塗られたように、時に黄、時に青、時に青緑と、どれもなまめかしく、現世のどのような有力者に対しても、常に優位に立っているように思われる。ノルデ自身、「色彩はしばしば私の作品の人物像や構図を決定する。色彩は、ちょうど言葉が詩人の手段であり、音が音楽家の手段であるように、画家の手段である。色彩はエネルギーであり、エネルギーは生命なのだ。」と述べている。東京での1981年の国立西洋美術館、2004年の庭園美術館でのエミール・ノルデ展には、残念ながら「学者と少女」は来ていなかった。 

 青年時代に画家志望だったアドルフ・ヒトラーの生真面目で写実的な絵は、決して下手ではなかった。稚拙だと蔑んだノルデよりも上手いかもしれない。しかしそこに、異国の高校生をたった一枚の絵で瞬時に虜にしたような、世界共通の脈打つものが宿らなかったのである。そして、芸術の多様性にこんなにも寛容になった時代にも、ノルデのような、魂をわし掴みにする個性は、どこにも見つけることができない。
 ドイツで作られたエミール・ノルデという名の黄色い薔薇は、ノルデの黄よりもずっと優しい。カップ咲きの丸い花弁は、名誉と自由を取り戻し、孫娘のようなヨランテと再婚、花咲く庭で制作に没頭したノルデの最晩年の幸福を思わせる。

◉2015年刊行『本の夢 小さな夢の本』芸術新聞社 に収録。