BER珊瑚とグラスの中の深海

yt0765432010-10-16

 銀座7 丁目の雑居ビル8階にあったBER珊瑚。 初めて足を踏み入れたのは、先輩のデザイナーのお伴であった。そこはマスコミ関係の溜まり場だった。会社にどんな人が居るのかもよく知らぬまま、勤めていた出版社をあっという間に辞めた頃で、そこで会った人が古巣の営業マンだったこともあった。六本木や新宿に流れ、何を深夜まで話したのか、みな意気軒昂であった。
  TOILET PAPERの端を直角三角形に折るのが銀座のBERの流儀だと思いこんでせっせと折っていたが、のちにそれは「お掃除終了」の印だということを知った。ギムレットマルガリータ、ジンフィズ、ソルティドッグ、ブルーハワイ、ピーチメルバ……。カクテルの名前をひとつずつ覚えたのもそこだった。常連の人々は、明るい海表近い珊瑚の海ではなく、暗い深海を遊泳するようなシルエットになって、夜の人工の光のなかに浮んでいた。
 営業マンの弟分だったWさんは、当時先駆けであった女性の人生書を出していた出版社の編集者だった。東銀座の会社にはよく伺って、ともに多くの本を作った。女性社長には跡形もなくなるくらいデザインを修整されたこともあったが、私好みのサッパリとした人柄を、折にふれ懐かしく思い出す。
 宇野千代さんのお惣菜の本の装丁を手がけたときは、舞台に招待していただき、ケーキの本の装丁がご縁でお会いした森村桂さんは、きれいな包装紙をプレゼントして下さった。宇野さんは125歳まで生きるとおっしゃっていたが、三桁には届かなかった。森村さんは、事情はつまびらかでないが、自死であった。Wさんはその後フリーになり、2009年、60代の若さで突然亡くなられた。夜の銀座にも、昼の東銀座にも、行くことがなくなって久しかった。
 同年秋、世田谷美術館所蔵のフィリップ・モーリッツのビュラン彫りの銅版画「アビシニア(深海)」(1967)に出会った。彼が深海を見たはずはない。なぜなら、実際の深海はもっともっと奇妙で、このような美しさはないからである。小さめのアルシュ紙に密度濃い豊饒な夢幻の情景が陰翳深いモノクロで刷られて、白い流れが動きを与えている。たゆとう深海生物のようだった、銀座の夜の人々が思い出された。
 飲んだことはないが、「アビシニア」という名のカクテルがある。グラスの中の深海。かつて確かにあってもうない小さな液体が、心のなかにあふれるように沁み出しはじめた。