津田青楓とモザイクの館

yt0765432010-10-04

 葡萄畑はみのりの季節だった。どこまでも続く色づいた房の連なりにみとれていると、その畑のなかに、白壁二階建ての瀟洒な美術館が姿を見せる。正面にはブルーグレイの曲線の石のモザイクが施され、屋根近くに同じモザイクの楓の葉が一枚。風を受ければ、いまにも裏葉を返すかのようだ。
 津田青楓(つだ・せいふう)の初期の洋画が収められた二階へと導く階段まわりには、親交のあった作家の鈴木三重吉森田草平、画家の小出楢重、哲学者の西田幾多郎らの肖像、踊り場には青楓図案、前夫人山脇敏子刺繍のモダンな一対の壁掛がひろがっている。
 三百号の油絵の大作「疾風怒濤」の前に立つと、凄まじい迫力に、烈しい暴風雨の断崖にいるかのような臨場感を覚える。この絵と向かい合った昭和六年制作の「犠牲者」は、いう間でもなくその激動の年に獄死した小林多喜二の肖像である。目を移せば、時代を活写した厳しい題材のものばかりでなく、敬愛した夏目漱石の四女愛子の溌溂とした肖像、二度目の夫人波麻子が編物をしている「邯鄲(かんたん)夢ノ如シ」などのあたたかな絵に、青楓の人柄をうかがうことができる。「トランプ裸婦」と題した一枚は、濃いグリーンのバックに横たわる裸婦と、彼女の前に開かれた真っ赤な箱のなかの数枚のトランプという取り合わせが、色彩・構図ともに大胆にして新鮮である。
 一階には、良寛や晶子の歌に絵をあしらったもの、漱石河上肇の肖像や自画像など、晩年の書画が掛けられている。また、着物の図案集や、六色の葉書と封筒を散らした「貼交「はりまぜ)屏風」を見ると、装幀に通じる優れたデザイン感覚がしのばれる。

 津田青楓は、明治十三年、京都生まれ。17歳で日本画の画塾に通い、関西学院にて洋画も学ぶ。同四十年、27歳の時に安井曾太郎とともにパリに留学、ジャン・ポール・ローランス氏に師事。帰国後の四十五年に、夏目漱石の弟子グループと知り合い、漱石山房に出入りする。
 この頃、森田草平の『十字街』を皮切りに、鈴木三重吉の本の装幀を多数手がけるようになる。漱石の本は、『吾輩は猫である』から『行人』までが橋口五葉、『こゝろ』『硝子戸の中』を作者みずから装幀し、『道草』からは青楓となる。アール・ヌーヴォー風の精緻で浪漫的な五葉とはまた趣が異なり、青楓の日本的な装幀のなんとおおらかに美しく、プリミティブな魅力に満ちていることだろうか。青楓が装幀に関わったのは、30〜40代の頃で、「食べてゆくため」であったらしいが、青楓の作品に触れることなしに、いま大正期の装幀を語ることはできない。
 昭和四年発行の『装幀図案集』に寄せた小宮豊隆の言葉は、青楓の芸術の本質を、簡潔的確にとらえているといえるだろう。「津田にとつては、書きたいことをかきたい様にかいてゐさへすれば、それが日本画になつてゐようが西洋画になつてゐようが、画になつてゐようが図案になつてゐようが、そんな事はどうでも可い事なのである。(中略)津田の素朴と自由とは、原始人のそれに近いものがある様である。」
 大正三年、有島生馬、山下新太郎ら九人と文展に対抗して二科会を設立。同十三年、マルキスト河上肇京大教授と交友し、プロレタリア美術への眼を開かれるが、昭和六年、河上教授が検挙され、青楓もまた神楽坂警察に留置される。「人間の天地に非ざる」体験をしたことで、青楓の人生観はすっかり変わってしまったようだ。洋画の筆を折り、二科会も脱会して、以来書をまじえた水墨画に専念するようになる。

 昭和四十九年、青楓94歳の年に歴史学者小池唯則氏が、出身地の山梨県一宮に私財を投じて青楓美術館を建設。青楓が98歳で没し、小池氏も他界したあと、遺族の寄贈によって、五十九年からは一宮町立の美術館となっている。
 画家にとって真に幸福なこととは何だろうか。それはひとつに語り継がれ鑑賞されつづけることかもしれない。春はうす紅の桃の花が咲き、秋はたわわな葡萄の実をみのらせる豊かな果実の郷に、わが分身ともいえる作品たちの終の棲処を得たことは、青楓にとって至福といってもいいことではないだろうか。

 (初出アートコレクションハウス「arch」1997-12 [WALKING MUSEUM] より改稿)