オートマタの悦楽とセーラ・クルーの「最後の人形

オートマタの悦楽とセーラ・クルーの「最後の人形」

 オートマタ(Automata ギリシャ語の「一人で勝手に動くもの」が語源)は、主に18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで作られた機械人形ないしは自動人形のこと。ゼンマイを巻いて動くからくり人形。
 動かないビスクドールは、アーテーの小さめのレプリカを一体持っていたが、うっかり落として首が折れてしまった。縁起が悪いので箱に入れてずっと仕舞ったままだった。レプリカを制作しているセサミブレインズさんに相談すると、修理可能ということ。お願いしたら、ほとんど傷がわからない状態で戻ってきた。
 そのセサミブレインズさん制作のジュモーのオートマタを入手。人形は旦那様が、奥様が衣装を作っている。かつて目白の「オルゴールの小さな博物館」で、お茶とピアノの演奏付きで、花綱を持って踊ったり、文字を書いたりするオートマタを何体も動かして見せていただいたことがある。入手したのはもちろんレプリカだが、「エリーゼのために」の音色とともに花の香りを嗅ぐ人形の動きを見ていると、オートマタが手に入るとは夢にも思わなかっただけに、今年は幸先がよいかも、と勝手に思ってみる。





 人形と言えば、思い浮かぶのは『小公女』の主人公セーラの11歳の誕生日に、父親のクルー大尉から贈られた「最後の人形」。セーラは裕福な家庭の子で、ミンチン女学院の寄宿舎では公女様のように扱われている。父親に買ってもらったエミリーという人形を持っているが、誕生日の人形は小さな子どもほどもあり、トランクの鍵を開けると、次々と美しい衣装や小物があらわれた。ダンスの会の服、訪問用の服、散歩服、テンの毛皮の外套やマッフ、レースの襟飾りや、絹の靴下、ハンカチ、首飾りから、黒ビロードの帽子、扇子まで、何から何まで見事な品がそろっていた。
 その誕生会の最中にクルー大尉の訃報が届き、皮肉なことに、それはセーラにとって本当の「最後の人形」になってしまった。一文無しになったセーラは、意地悪なミンチン先生に屋根裏部屋に追いやられ、下働きに使われるが、どれほど耐えがたい日々にも、決して心の気高さを失うことはなかった。

 赤いトランクと人形の写真は、神戸ドールミュージアム
 屋根裏部屋のセーラの挿絵は、2011年の福音館書店版。画家はエセル・フランクリン・ベッツ。

ルー・サロメ 善悪の彼岸

ルー・サロメ 善悪の彼岸
――ニーチェリルケフロイトを生きた女

 ルー・サロメの本名は、ルイーズ・フォン・サロメロシア皇帝に仕えるグスタフ・フォン・サロメ将軍の第六子として、1861年サンクトペテルブルグで生まれた。幼い頃から利発聡明で、それを見抜いた教会のギロート神父から、17歳の少女が消化できるとは思えないほどの、ありとあらゆる知的訓練を受ける。キリスト教、仏教、ヒンズー教マホメット教を比較しながらの宗教現象学の根本概念、哲学、論理学、形而上学、認識論、フランス古典主義演劇、デカルトパスカルの哲学、シラーなどのドイツ文学、美術史、世界史、オランダ語、カント、キルケゴール、ルソー、ヴォルテールライプニッツ、フィフテ、ショーペンハウアーをも読ませた。19歳のとき、自分に夢中になってしまったギロート神父の求婚を斥けるため、ルーは故郷を後にし、チューリヒ大学の聴講生となる。出国のための洗礼式で、ギロートは、はじめてルイーズをルーと呼び、彼女は生涯その名を名乗ることになった。
 スイスでの猛烈な勉強がたたって、病を得たルーは、医者に転地療養を命ぜられ、ローマに赴く時に、キンケル教授からマルヴィーダ・フォン・マイゼンブーグ夫人への紹介状を渡され、そのサロンに出入するようになる。夫人のサロンには、その時代の知性がこぞって出入りしており、そこでルーは、若き哲学者パウル・レーと出会う。レーはすぐにルーに夢中になり、友人のフリードリッヒ・ニーチェを紹介すると、ニーチェもまた一目でルーに心を奪われてしまう。
 この時、ルーは21歳、レーが33歳、ニーチェは37歳だった。

 ルーは、各々が勉強するための個室を持つ家での共同生活を提案する。 今でいうシェアハウスであろう。この頃、ニーチェの発案で三人は写真館に行って、「聖三位一体」という奇妙な写真を撮っている。前方で荷車を引くレーとニーチェに、後方でルーがムチを振るふりをしていて、彼女が男たちを支配しているかのような写真である。結局、聖三位一体シェアハウス計画は、レーとニーチェの嫉妬によって破綻した。
 会ったばかりの男性をたちどころに虜にしながらも、ルーの言動や思考は限りなく男性的であり、女性的な媚などは一切なく、いわゆるファム・ファタール(魔性の女)とはほど遠かった。
 ルーが26歳の時、突然フリードリヒ=カール・アンドレアスと名のる黒髪の大学教授が訪れ 、ナイフを自分の胸にかざしてルーに結婚を迫った。アンドレアスが傷を負ったのに恐れをなし、ルーはやむをえず彼との”白い結婚”に同意する。
 失恋による傷心、病気の発作、ルーをめぐる母や妹との不和、自殺願望にとりつかれた苦悩などから解放されるため、ニーチェはイタリアへ逃れ、そこでわずか10日間で『ツァラトゥストラはかく語りき』の第1部を書き上げる。
 パウル・レーは、ルーの結婚を知って失踪、オーストリア山村の救貧医となり、会わなくなってから14年目に、崖から転落死をしている。

 ルーは、アンドレアスと結婚後に、14歳年下の新進気鋭の詩人ライナー・マリア・リルケと運命的に出会った。リルケもまたルーに深く心を奪われ、ロシア旅行などをともにしている。その後ルーに振られたリルケは、北ドイツの芸術家村ヴォルプスヴェーデを訪れ、その地で知り合った、ロダンの弟子で彫刻家のクララ・ヴェストホフと結婚したが、ルーの予言どおりにそれはうまくいかなかった。リルケは1910年に、パリでの生活を題材にした小説『マルテの手記』を、ドイツの古城で連作詩『ドゥイノの悲歌』を書いた。リルケにとってルーは終世忘れることのできない女性であり、51歳で死去するいまわの時に「私のどこがいけなかったのか、ルーに訊いて下さい。彼女しか知らないことです」と言い残している。
 ルーに一目で魅惑されたのは、哲学者、心理学者、医者、政治家、と枚挙にいとまがないが、彼女は熱情を捧げる相手と、アンドレアスやニーチェやレーのように白い関係とに、明確なラインを引いていたように思われる。
 晩年のルーは、「夢判断」の精神分析学者ジグムント・フロイトのよき理解者であり、共同研究者であった。
 1977年のイタリアのリリアーナ・カヴァーニによる映画「ルー・サロメ 善悪の彼岸」では、ドミニク・サンダがルーを演じている。映画は、ルーの若き日だけを描いているので、主にレーとニーチェとの三人を主軸とした物語であり、リルケは、最後の場面でチラリと姿を現すにすぎない。
 ルーは小気味のよいほどに徹底的に自己中心的な人物だが、何があろうと、いささかも自分の生き方を変えないし、その強烈な個性やたぐいまれな知性が、男性の誰をも虜にしてしまう。リルケとの別離後も医師のピネレース(ゼメク)や精神科医ビエレ、タウスクと言った若い恋人たちが常に身近にいて、最後は、アンドレアスの事実上のパートナーであった家政婦のマリーとの間の庶子マリーヒェンを養女にした。
 ルーの死後、ゲッチンゲンの高台のハインベルグの丘の家にゲシュタポのトラックがやって来て、ルーの蔵書を積んで運び去り、市役所の地下室に放りこんでしまった。

[参考文献]
H・F ・ペータース『ルー・サロメ 愛と生涯』土岐恒二訳(筑摩書房)1965
白井健三郎『ルー・ザロメ ニーチェリルケフロイトを生きた女』(風信社)1985

[本の会]355回例会のお知らせ

[本の会]355回例会のお知らせ

装幀を仕事とし、詩人や作家、画家との交流や読書の記憶から生まれた小さな本。このたび『本の夢小さな夢の本』(芸術新聞社)を上梓された田中淑恵さんに、本をめぐる楽しいエピソードとサプライズに満ちた話を語っていただきます。
本の会はどなたでも予約不要で参加できます。お誘い合わせの上、たくさんのおいでをお待ちしています。トークの後、二次会を予定しております。

           記

日時:2016年3月29日(火)午後7時〜
場所:文京区男女平等センター http://www.bunkyo-danjo.jp/index.aspx
   (丸ノ内線本郷3丁目駅改札口を左手に出て、右手に曲がり、春日通りに出たら、左手に曲がり、2つ目の信号を右に入り、本郷小学校前の茶色のマンション1階)

講師:田中淑恵氏(装幀家
演題:「小さな本と偏愛する作家たち」
会費:2,500円(当日払い、領収書発行)

本の会代表:大出俊幸
E-mail:hon@papyrus-i.co.jp FAX:03-5684-3059
*案内の必要な方ははがき・メールのご希望を明記の上、事務局までご連絡下さい。

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〒113-0033
文京区本郷2-26-3電子ビル1階
本の会事務局 鵜飼恵里香
Fax03-5684-3059
携帯090-2677-2380
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若松賤子とセドリックの怜朗*



 世界各国のさまざまな本を、私たちがいつでも自由に読むことが出来るのは、ひとえに多くの翻訳家のおかげであるといっていい。あらゆる分野で翻訳書が出版されている中で、女性翻訳家の占める割合は、近年確実に高くなっているように思われる。
 若松賤子(しずこ)は、その女性翻訳家の草分けともいえるひとである。しかし、彼女の訳した代表作『小公子』や『小公女』、作者のバーネット夫人のことは知っていても、賤子の名をすぐに思い出す人は、もう今ではごく稀になってしまったのではないだろうか。賤子の果たした役割は、最初の本格的な女性翻訳家というばかりでなく、その直前まで読まれていた児童ものが『鶴千代』や『牛若丸』であったことを思い合わせれば、西洋を舞台にした、自然でわかりやすい口語体の物語の紹介が、いかに新しく画期的なことだったかがわかるだろう。
 賤子は、幕末の元治元年(一八六四年)、現在の福島県会津若松に生まれた。本名は松川甲子(かし)。会津藩士の父は、単身赴任で藩の隠密のような仕事をしていたため、不在がちでほとんど会うことがなかった。明治三年に母が二十七歳の若さで病没した時に、妹と残された賤子は、まだ六歳の幼女だった。孤児となった松川甲子が、翻訳家若松賤子として華ひらくために、不可欠とも言えるふたつの重要な契機がある。
 ひとつは、ちょうどその頃商用で会津に来ていた、横浜の織物商山城屋の番頭大川甚兵衛の目に留まり、子どものいない大川家の養女となって、会津から横浜に移り住んだことである。養母おろくは、福島遊郭の遊女だった人で、賤子のしつけ一切を、米国人宣教師のミス・メリー・キダーの手に委ねた。彼女はそこでピューリタン的教育も同時に受け、明治十三年に受洗している。優れた語学力と明朗な人柄を愛され、卒業とともに切望されて母校(のちのフェリス女学院)の英語教師となった。
 横浜という風土が、賤子の豊かな感性をのびのびと育んだのにちがいなく、ペンネームとした生地会津若松にとどまっていたなら、あるいは若松賤子の誕生はなかったかもしれない。賤子の名は、「神の賤しきしもべ」という意味で、いかにも敬虔なクリスチャンらしい命名である。そしてまたこの時代には珍しく、賤子は自分自身の意志で恋愛結婚をしている。
 明治二十二年、彼女が夫として選んだのは、明治女学校の教頭でもあり、投稿していた「女学雑誌」の編集発行人でもあった巌本善治である。クリスチャンで文学的教養をそなえた、いわば「同志」である善治と結ばれたことは、作家賤子にとっては、実に幸福で賢明な選択であるといえるだろう。最高の理解者にあたたかく見守られて、つねに発表の場を持ち、短い期間ながらその才能を充分に伸ばすことができたからである。これがもうひとつの契機である。
 明治十九年、「女学雑誌」に、はじめて使う若松賤子の名で、文語体による鎌倉の紀行文を発表している。 
五月雨の晴れ間をぬって「鎌倉をみるとなむいへばいと事ふりたるやうなれど、流石は音に聞えし古しへの都なれば、其古跡 をも見ばやと望巳難く(やみがたく)」、友と連れ立って早朝の金沢の宿を発つ。

 入江の島に立ち込める雪のような霞、浜の塩焼きの煙、魚(いさ)とり舟の櫂の動きに連れて咲く浪の花、戯れる水鳥など、賤子の目にめずらしく映った風物が、みずみずしい筆致で綴られている。やがて、この日見た風光とくさぐさの想いを旅の土産に、おそらくふたたびは来ることのなかった鎌倉をあとにしたのである。

 賤子の最初の口語訳は、二十三年に発表したミス・プロクターの詩をもとにした翻案小説「忘れ形見」だった。同年には『小公子』の連載もはじめている。


  セドリツクは、門番の女が、取締を見たも同様な調子に、老侯を見て、ずツと側まで歩み寄りました。
 「あなたが侯爵さまですか? 僕はハヴイシヤムさんが連れて来た、あなたの孫ですよ、フォントルロイです。知つて入ツしやるでしやう?」
 と云つて、侯爵さまでも挨拶をするのが礼儀で、適当なことに違ひないと思ひ、手を伸べながら、又大層なれなれしく、
 「御機嫌は如何ですか、僕は今日あなたにお眼にかかつて、大変嬉しいンです。」
 といひました。


これは、アメリカで育った主人公セドリックが、渡英してはじめて、気難しい祖父の老侯爵と対面する場面である。一読して、さらに声にしてみて、百十年の星霜をみじんも感じさせないところに、賤子の斬新さとあふれる気概をみる思いがする。
当時名翻訳家としてその名を馳せ、「翻訳王」といわれていた森田思軒は、『小公子』に触れて、数年前に発表された二葉亭四迷の言文一致小説「浮雲」と双璧をなす、また、「二十年来第一の訳」とまで記して絶大な賛辞を惜しまなかった。
 天使のように清麗なうえに、愛嬌があって人なつこく、ものおじしないセドリックの姿は、老侯爵のかたくなな心を溶かすのにふさわしく、まさに賤子にとって理想の子供像であったにちがいない。しかし、それが単に遺伝のたまものということではなく、
 「是は両親(ふたおや)が互いに相愛し、相思い、相庇い、相譲る処を見習つて、自然と其風に、感化されたものと見え升(ます)。(中略)いつも寵愛され、柔和(やさし)く取扱かはれ升(まし)たから、其幼い心の中(うち)に、親切気と温 和な情とが充ち満ちて居り升た。例へば、父親(てておや)が母に対して、極物柔らかな言葉を用ゐるのを、自然と聞覚えて、自身にも其真似をする様になり、又父が母親を庇ひ、保護するのを見ては、自分も母の為に気遣ふ様になり升た。」
というくだりに余すところなく述べられているように、家庭での躾とは、両親がともに愛し庇いあう姿を見せるに尽きると、 賤子自身も、まさしくそのように考えていたのだと思う。夫婦や親子の関係が非常に希薄になっている現代にあって、この普遍の一文はひとしお胸に沁み入ってくるようである。

 わずか八年ほどの執筆期間にもかかわらず、賤子は「女学雑誌」や東北学院の英文雑誌「ジャパン・エヴァンヂェリスト」などを舞台に、五十数篇の創作、翻訳、翻案小説、詩、伝記、随筆などを精力的に発表し続けた。海外への日本の伝統・行事の紹介にもつとめ、欧米から来た女性の通訳としても活躍した。同時に女性解放、女性啓蒙にも力を注いだ。
 家庭人としては、病弱の身ながら一男二女を設けている。夫の理解が深かったとはいえ、家庭と仕事を両立し、その仕事がまったく新しい試みであったということは、百年前という時代を考えてみれば、驚嘆に値することかもしれない。
 賤子が華々しく活躍した頃は、女性の啓蒙誌から文学的色合いの濃くなっていった「女学雑誌」の絶頂期でもあった。
 石橋忍月、星野天知、北村透谷、平田禿木(とくぼく)など、寄稿者の大半は明治女学校の若い教師だったため、女生徒たちの憧憬の的だった。島崎藤村の本名は島崎英樹。年上の恋人佐藤輔子の一字をとって藤村と名乗った。その彼らが文芸誌「文学界」を創刊してそちらに移行していってからは、次第に精彩を欠くようになっていった。
 そんな中で、賤子の死は突然におとずれた。四度目の妊娠中の二十九年二月、寄宿舎の階下を借りていたパン屋からの出火によって、明治女学校は一瞬にして焼失してしまった。五日後に、賤子はそのショックと身体の衰弱のために、幼い子供たちに心を残しながらひとり旅立っていった。伝記は書かないように、墓には賤子とだけ記してほしいと言い残して。まだ三十二歳という若さであった。
 賤子より九ヶ月後に亡くなった樋口一葉も同様だが、この時代に意義ある仕事を成して、老いることなく逝った人々の、作品の命はなんと長いことだろうか。いま私たちはかつてない長寿を与えられながら、先人の業績をあたりまえのように享受しているだけである。そして、『小公子』を改めて読み返し、すべてが初めてであったその真新しく輝かしい瞬間に、せめて想いなりとも立ち戻りたいものだと、背筋を伸ばして身を引き締めることぐらいしかできないでいるのである。
 (初出:かまくら春秋社「季刊湘南文学」2001年春号 冒頭の絵と写真はいわさきちひろと若松賤子、赤い本はあかね書房版)

プーシキン「バフチサライの泉」とザレマの愛の情熱

プーシキンバフチサライの泉」とザレマの愛の情熱


  かの泉、われと同じく
  訪れし人あまたありしが、
  今ははや世を去りしものあり、
  はるか遠くさまようものあり。
          サディ


 クリミア・ハン国は、ジンギス・ハーンの後裔と言われるハージー1世ギレイによって15世紀中頃に建国された。建国からロシア帝国併合に至る360年は、クリミア・ハン国にとって、侵略と介入と従属と独立の歴史である。黒海に面し、南にオスマン帝国、北にモスクワ大公国ポーランドに接し、最盛期には黒海北岸をドニエプル川下流域から北カフカスの一部まで支配する王国に成長した。
 その後クリミア・ハン国のハン位を独占したメングリ1世ギレイの男系子孫はみな名前の後半に「ギレイ」の名を冠したため、この王家は「ギレイ家」と通称されている。1532年、第15代サーヒブ1世ギレイはバフチサライに宮殿を築き、そこへ遷都した。第69代バハディル2世ギレイの治世を最後に、1783年、エカテリーナ2世によってロシア帝国に併合された。
 ロシアの作家アレクサンドル・プーシキンは、クリミア半島の旧都バフチサライの宮殿を訪れた時、「涙の泉」(Фонтан слёз) と呼ばれる噴水を見た。これは往時のクリミア・ハン国の汗が、思いを寄せていた異教徒の女奴隷の死を悼み、涙を流す噴水として作らせたものである。このときの見聞が、翌1821年から2年をかけて書いた600行から成る物語詩 「バフチサライの泉」に結実した。


  タタール人の歌

    一
『ひっきりなしの苦しみも、悲しみも
神の御心で救われましょう。悲しい年を重ねた老いた行者も
メッカを見ればしあわせなこと。

    二
 栄えあるドナウの岸辺を
死んで清める者はしあわせ−−
楽園のおとめがその者のもとへ
心からのほほえみを浮かべ飛んで来る。

    三
 でも、もっとしあわせなのはおお、ザレマよ、
安らかといとしさを愛し、
ハレムの静まりのなかで、愛らしき者よ、
おまえをバラのように愛撫してくれるその人よ』


 歌声は流れる。だがザレマはどこ?
愛の星、ハレムの美しい花は?−−
ああ、物悲しげに色青ざめて、
ほめ讃える声にも耳をかさぬ。
雷におしひしがれた棕櫚のように
その若き首を垂れていた。
何も何ひとつとして彼女の心に染まぬ、
ギレイはザレマを愛さなくなったのだ。


 彼は心変わりしたのだ!……だが誰がおまえに、
グルジヤの女よ、おまえの美しさにおよび得よう?
百合の花のように白い額には
垂れた髪が二重に巻きついている。
魅惑的なおまえの眼は
昼よりも明るく、夜よりも黒い。


 他の誰の情熱的な口づけが
おまえの毒ある接吻より生気にあふれているだろうか?
どうして、おまえにみたされた心が、
余人の美しさにときめくことがあろう?
しかし冷淡にして酷薄な男、
ギレイはおまえの美しさを軽んじた、
そしてあのポーランドの公女が
彼のハレムに幽閉されてこのかた
夜の冷やかな時を彼は
ひとり陰うつにすごしている。


 うら若いマリヤが異国(とっくに)の
空を仰ぎ見たのは先ごろのこと。
そのふるさとでしとやかに
美しく花咲いたのも先ごろのこと。


 ああ! バフチサライの宮殿は
年若い公女をかくまっている。
変化のない囚われの日々に枯れしぼみ、
マリヤは悲しみ涙に沈む。
この不幸な女をギレイはあわれむ−−
その憂うつ、涙、呻きの声は
汗の短き眠りを乱す。



 華やかな東の国の夜、また夜の
暗き美しさ、その快さ!
何と甘く夜の時は流れ行くことか、


 妃たちはみな眠る。眠らぬはただ一人。
息を殺し、彼女は立つ。
歩み行き、いらだつ手にて
戸を開き、夜の闇にまぎれて。


 ためらいつつ震える手が
忠実な錠前に触れた……
すると言い知れぬ恐怖が胸にしみ入る。
燈明のわびしい光、
悲しげな光を受けている壁龕、
いと浄き聖母のやさしきお顔、
そして愛の聖なる象徴たる十字架、


 彼女の前には公女が休らっていた、
そしておとめの眠りに彼女の頬は
生き生きと赤く染められ、
涙のあともなまなましいが、
ものうげな微笑みで照らし出されている。
まるで雨に痛めつけられた花が
月の光に照らされるように。
天空より飛来したエデンの子、
天使がここでいこい、夢うつつに
ハレムのあわれな囚われの娘に、
涙をふりそそいだようであった……


 その言葉、ふるまい、うめく声は
おとめの静かな眠りを破る。
公女はおそれをなして、目の前に
年若き見知らぬ女の姿を見る。
「あなたは誰?……ひとりでこの夜中に−−
ここに来たのはなぜ?」
−−私をたすけてください。私には残されていないのです
一つの望みのほかには、それが私の運命です……
       
 おそれも悲しみも今までは、
この私には縁なきことでありました。
私は安らかな静けさのうちにあって
ハレムのかげに花を咲かせました。
そして愛の最初の経験を
素直な心で待ち望んでおりました。
心に秘めた私の願いはかないました。
心騒がせ期待に満ちて汗の前に
私たちはまかり出ました。無言のうちに
その明るいまなざしを私にとめられて、
汗は私を呼ばれました……その時以来
私たちは絶え間なく歓喜にひたり
幸福にあふれていました。


 マリヤよ! 汗の前にあなたが現れた……
ああ、その時から汗の魂は
いまわしき物思いに曇らされた!
ギレイは心変わりする有様、
私の責める言葉も聞こうとせず、
昔の気持、昔の語り合いを
もう私には与えてはくださらない。
  

 しかし私は愛の情熱のために生まれた女、
私のように愛することはできますまい。
なぜに冷たい美しさをもって
あなたは弱い心をかき乱すのです?
ギレイは私に残しておいて、あの方は私のもの。
それなのにあなたに目がくらんでいる。
あの人を思いとどまらせて。
−−もしもやむを得ず
あなたを……となれば、私には短剣があるの、
私の生まれはコーカサスの近くだったの」
 こういうとふっと姿を消した。



 生きることの貴重な時は、
もはや過ぎ去り、もはやありはせぬ!
この世の荒野で何をなすことがあろう?
彼女の時が来り、天国が、
平和のふところがマリヤを待つ、
なつかしいほほえみでマリヤを召す。


 何日かの時が過ぎた。マリヤはもういない。
たちまちに、みなし児は眠りについた。
彼女は新しい天使として
久しく待ち望んでいた国を照らした。

 
 陰うつな宮殿はむなしくなった。
ギレイはふたたび宮殿をあとにした。
タタールの軍勢をともない、異国をめざし
凶暴な襲撃を加えるのだった。


 忘れ去られ、一顧だに与えられず、
ハレムはその主の顔を見ることもない。
妃たちの中に、久しき前よりグルジヤ女はいない。
物言わぬハレムの番人たちのために
水底深く沈められてしまった。
かの公女の死のあの夜に、
彼女の苦難の死も起こったのだ。
その罪がいかなるものであれ、
この仕置きはおそろしかった!


 コーカサスの近隣の国々や
平和なロシヤの村々を
戦火で荒らしつくし、
タウリーダに汗は立ち帰った。
いたましいマリヤの思い出に
うらさびしい宮殿の一隅に
大理石の噴水を作らせた。
その上にはマホメットの月が
十字架と組み合わされている
碑銘にいわく−−つらき年月をふれど
かの人の姿消えうせることなし、と。
異国の碑銘の文字のかなた、
大理石のうちに、水はさざめき、
冷たい涙のようにしたたり落ちる。


 この国のうら若きおとめたちは、
古き時代の昔語りを聞き知って、
この陰うつな記念碑のことを
「涙の泉」と名づけたのであった。


 忘却のうちにまどろめる宮殿を
私はバフチサライに訪ねた。
今にいたるもなお、逸楽の気がただよい、
水はたわむれ、バラは赤らみ、
ぶどうのつるはもつれ、
壁の上には金の光が輝く。
私は年ふりた格子を見た、
その華やかなりし時は、そのかなたで
琥珀の数珠をまさぐりながら  
静寂のうちに妃たちが溜息をついていた。


 あたりはすべて静か、すべて弱まり、
すべて変わりはてた……しかしその時
バラの香り、噴水のさざめきが、
思いがけぬ忘却へと私をいざない、
思わず知らず私の心は身をゆだねていた
すると飛び去る影のように宮殿の中を、
おとめが眼の前にちらつくのだった!……


 誰のやさしい人影が
その時私をつけてきたのか、
ぴったりとつきまとい、離れようともせずに。
マリヤの清らかな魂が
私の前に現れたのか、あるいは
ザレマが嫉妬をみなぎらして
荒れ果てたハレムを走り過ぎたのか?


 おお、美しいサルギルの岸辺よ、
ふたたび間もなくおまえと会えるのだ!
ひそかな思い出にみたされて
海にせまる山々の坂道へとおもむこう−−


 そこではすべてが生きている−−丘も森も、
琥珀やルビーのようなぶどうも、
谷間の居心地のよい美しさも、
水の流れも、ポプラの木陰の涼しさも……

 
 静かな朝の時刻、
山々の岸辺の道を通って旅人が
行き慣れた馬を走らせる時、
そして青み行く水が旅人の前に、
アユ=ダガの絶壁をめぐって
光り輝き、ひびきわたる時。


川端香男里訳 より抜粋)



 バレエではR ・ザハロフ振付、B・アサフィエフ作曲の全4幕ものが最も知られている。

プロローグ
バフチサライの泉のほとりでタタール王ギレイ汗がうなだれている。失意の彼の心の裡にあるものは…。
第1幕
ポーランド貴族の娘、マリア・ポトツキーの誕生舞踏会。
マリアは家族や婚約者と舞踏会を楽しんでいる。
そこへギレイ汗が率いるタタール軍が侵入。
マリアは父と婚約者を失い、ギレイ汗に連れ去られる。
第2幕
マリアの美しさに打たれたギレイは彼女を宮殿に伴う。
それまでギレイから一番愛されていた寵姫ザレマは衝撃を受け、失神する。
第3幕
バフチサライの宮殿で暮すようになった後も
マリアは故郷を偲び、ギレイに心を開くことはなかった。
マリアへの嫉妬で激情に駆られたザレマはマリアを刺し殺してしまう。
怒りのあまりギレイはザレマを手討ちにしようとするが、
ザレマの「愛する人に殺されるなら本望」との言葉に
ギレイは自らの手でザレマを処断することができずに終わる。
第4幕
ザレマが崖から突き落とされて処刑された後も、ギレイは鬱々した日々を送る。
バフチサライの泉に傍らで物思いにふける彼の脳裏からマリアやザレマの面影が消えることはない。

大岡昇平『武蔵野夫人』と内田吐夢『限りなき前進』

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 学生時代、恋ケ窪、鷹の台、と国分寺からふたつめの駅で降り、玉川上水沿いの道を歩いて大学へ通った。大岡昇平の『武蔵野夫人』は、その恋ケ窪が舞台だが、かつて一度たりともそこで降りようとしたことはなかった。溝口健二監督の映画『武蔵野夫人』をあらためて観ると、戦後すぐの武蔵野の風景と野川の湧き水、その水源地である恋ケ窪が牧歌的に描かれている。この地には、遊女が池に身を投げたという伝説があった。主人公道子(田中絹代)の従弟で、ひそかに想いあっている、ビルマから復員したばかりの大学生勉役に片山明彦。この人は両親が俳優で、子役として『路傍の石』の愛川吾一などを演じている。『挽歌』では知的な建築技師だった森雅之が、道子の夫である俗物でいつも機嫌の悪い、スタンダール研究者のフランス文学の教授役であるところが、何だかとてもいたましい。森雅之も、隣家の山村聡も、うつむいていると上品な片山明彦までもが、時々目を剥いて不満を述べるのは、溝口健二好みの演出なのだろうか。
 巌谷大四の新聞連載「名作の女性たち」の見出しに「貞淑を美徳と信じ」と書かれているが、道子は本当にそう信じていたのだろうか。その時代に、女性たちは「信じていた」というより、「信じさせられていた」のではないだろうか。道子はたび重なる不幸と美徳にがんじがらめになって絶望し、みずから死を選んだのである。
 さらにこれは初見では気づかなかったが、片山明彦は内田吐夢監督の『限りなき前進』にも出演していたようだ。『武蔵野夫人』の妖艶な富子役の轟夕起子が初々しい少女役だった頃なので、当然少年役(子役)だと思う。
 この作品は、マイホームの夢破れたサラリーマン(小杉勇)が発狂する後半を、戦後内田が満州に残留している間に、GHQにハッピーエンドに改竄(未確認)され、激怒して改竄部分を削除、字幕で補って修正したという未完全版しか残っていない。十数年前に京橋のフィルムセンターでようやく観ることが叶ったのも、この未完全版だった。


大正・乙女デザイン研究所9月例会のお知らせ


[大正・乙女デザイン研究所 第44回月例会]
日時:9月26日(土) 18:00〜
会場:中央区立産業会館4階 『第4集会室』
   東京都中央区日本橋2−22−4
   http://www.chuo-sangyo.jp/access/access.html
内容:芸術新聞社刊『本の夢 小さな夢の本』出版記念+懇親会
     小さな本制作の経緯と装丁のことなど (田中淑恵)
参加費:2.500円:写真左の書籍1冊+お茶菓子付き(書籍を既にお持ちの方は1.000円)
お申し込みは、下記『大正・乙女デザイン研究所事務局』まで。9月24日締切。
otome-design@mail.goo.ne.jp

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